眼鏡とカルマ

「眼鏡」そのものに罪はない。しかし、眼鏡という象徴記号に伴う自我やイメージを軽んじては、眼鏡に「掛けられる」。眼鏡そのものを掛けている自分という主体に客体としての眼鏡が境界線を無くすことで、要はそこにはレンズ越しに見えている世界と被・レンズ越しに観られている自身の有耶無耶を投企させかねない。
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僕自身にとって、目が悪くなるということはコンプレックスの一つで、それは小学校高学年の時期から視力検査で、1.0を割り出してきたとき、昼休みなり任意制だが、「遠望訓練」というものに参加したりすると、結局は皆はグラウンドでサッカーなり遊んでいるのを傍目に保健室沿いにそれらから「阻害」されてしまっている自身のマイノリティ性を自覚せざるを得なかった。思春期は、誰もが自意識過剰になりかねないが、やはり多感な時期に視力が悪くなる→眼鏡を掛けるという抗いの想いは強く、眼鏡を買って授業を受けていても、見える範囲での黒板の文字や机の場所では裸眼で見たり、目を細めたり、ただ、最後は眼鏡に頼ったり忙しなかった。

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また、昨今は量販店の定着もあるが、オシャレでクールな眼鏡が増え、実用性以外にファッション性も帯びている。ただ、”ファッション・眼鏡”というのは今でも抵抗があるのはお洒落に眼鏡を掛けていない、切実な眼鏡実用者の呪詛なのかもしれないが、それでも、今はレンズを薄くする技術にちゃんと合わせてクールなフレームも選べるようになっていて、実用者でもお洒落に構える所作はできる。ただし、やはり眼鏡とはマイノリティ・サイドの要望が実現させたひとつの喪失点であると思う。

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中学生の頃、母親と眼鏡を新調しようと行った、いわゆる町の眼鏡屋さんで、相当な分厚いレンズに合わないシルバーフレームの眼鏡を作られてしまい、しかし、それを掛けないといけない訳だが、過去に外国人タレントのケント・デリカットがレンズの厚い眼鏡でネタをやっていたように、そういうような「笑い」に換えるための導路ではない、リアリティとしてのその眼鏡がもたらせた自意識への圧迫はずっと消えない因子はある。色白で眼鏡で猫背で痩身で、キャリーを持って歩いている人種というのは基本、マイノリティというよりも、明らかに「真っ当」ではない。以前にセミナーのときに、会場がある棟の上から年配の先生が僕の姿を見つけてずっと追っていた際に、「昔は君みたいなのが、分厚い哲学書か何か読んで、肺結核を患うような感じで教室の隅で居たものだよ。」と言われて、そういう意味では絶命危惧種としてのインテリゲンツァという言葉や文学青年というパロールは想像以上なのかもしれない。

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アフリカから来たタレントがよくネタで、日本に来て、視力が2.0まで下がったみたいなことを言うが、新興国に行くと、基本、目が良い。最近はネット環境が整備されてきたのもあり、どうにも変わっては来ているが、眼鏡を掛けている層が歩くストリートというのは金融関係やシンクタンクや、知的労働者やホワイトカラー枠で動くようなところも多く、やはり、アファーマティヴな、積極的差別措置的な場所であることもときに、感じた。

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眼鏡を巡る問題は存外、根深く、業が絡む。