Can't u hear social voice,

04年のシャーリーン・リー、ジョシュ・バーノフ『グランズウェル―ソーシャルテクノロジーによる企業戦略』は刊行当時、話題にはなったものの、ソーシャルテクノロジーが機関寄与を護るのではなく、互助でうねりを作っていこうという提題は「無理」があるというような大半の見方がされた。

まだ、大きな政府、小さな政府、更にはベーシック・インカムなどに対しての再考が進められる前夜の夢見話で、結局はその時点で、「政府機関というのは盤石だ」という暗黙の集合的認識がどこかで識者以外にも皆に在ったということなのだろうと思う。

しかし、今、世界を見渡せば、“政府”という主体機関は盤石ではなく、寧ろ融通のきかない不透明性の高い生態系のような見方も高まっている。簡単に、公はアテにならないとかではなく、実際、情報はどんどん公開されていったり、政府機関としての役割期待に応じる形は取っているが、その公開の仕方とアカウンタビリティに市民サイドが追いつけていない、といういびつさはある。その著では、フリーサイクル、シェアラブルというサイトを紹介し、財、サービスを共有し合い、非・公式のネットワークの可能性を示唆していた。つまりは、「今、私には病院に行きたいのですが、少し動けません。救急車も時間がかかるようです。この近辺の方で車などで。」みたいなことがあれば、それをシェアリングをして、それに気づいた人がその情報に向けて、車を動かすということで、ただし、例えば、Twitterで膨大にRTされる情報が是なのか以前に、悪意の第三者が居るという意味で、無邪気な非・公式ソーシャル・ネットワークの危うさや昨今、話題の仮想通貨のビットコインが露呈した「正式なお金じゃありません」という際の“正式”はやはりどうにも、まだ有効であり、正式じゃないものは保証されない。それでも、正式であれば、全面保証される訳ではないというディレンマも今はある。

グランズウェルの提案する大きいレベルでのソーシャルテクノロジーのうねりに比して、“小さい”ものに目配せすると、数万、数千規模の自治体で、SNSで膨大な提案やメッセージをおくれば、対応能力そのもの以前に母体は簡単にパンクする。需給ギャップの問題でいえば、「医療機関をもっと増やして、娯楽施設を増やして、道を整備して。」と住民サイドが言うことは「できる」が、予算や税収の関係などを考えると、「できない」。

できないこと、と、できることの優先順位が掻き回されてしまうと、負の側面は実は発信者サイドにいくことになるケースもあり、政府機関の停止は治安や公共サービスの面までいくからで、ただ、昨今の色んな“春を求める”状況で民衆サイドが取った旗は、守り切れているのかとなると、難しいといえる。

何故ならば、ある種の統治能力を持った人たちが「統治できて」いたわけで、それを「できない」人たちが急に「できる」訳ではないからで、そうなると、様々な知識、経験を持ち、統治能力を持つ人たちが揺り戻しを起こす。その間にやはり、どうしても争いや諍いが生まれてしまう。結果、誰が幸せになったのか、というよりも、誰もが混沌の中で何かが喪われた歳月を想うことになる場合もある。

分かたれてゆく地層のような共同体の中で、保つ自由は非・自由と拮抗する。それに対しての導線として、整備し直す「系」はあるとも思う。

グランズウェル~ソーシャルテクノロジーによる企業戦略 (Harvard Business School Press)

グランズウェル~ソーシャルテクノロジーによる企業戦略 (Harvard Business School Press)