スガシカオ「航空灯」によせて
傷ついた人たちに「頑張ろう」と言うのは傷痕に塩を塗るようなもので、新聞の読者投稿欄の「正論」くらい味気なくなる。
ひとつの喜びや誰かの成功を多くの人たちとシェアして、今を盛り上げる風潮にメディアがすぐに手のひらを返すのも「仮想敵」ができた方が都合がいいからで、救急車が近くに止まれば、蒲公英を踏みつぶしていくような瀬で、「君の話をいくら聞いても、届かない距離感」はおのずと限界が出てきてしまう。
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スガシカオはそんな、人間一人ひとりのどうしようもなさや、心情の欺瞞と揺れにフォーカスをあて、ときに優しさや悲しみなどの大きな概念にシニックに構えて綴ってきた。再び、メジャーに戻るにあたり、今回、自主的に発表されたEP『ACOUSTIC SOUL』の全体はまた評論するとして、「航空灯」という曲について記そうと思う。
彼の曲には、別れの象徴として車や飛行場、飛行機が用いられることもあるが、この「航空灯」はいつかの「波光」のようなたよりなげでぼんやりとした光を巡る。繊細なバラッドながら、いつもより言葉遣いやメロディーがほのかな前を見ているが、低空飛行の燕のような雨の予感を忍ばせるような不安定な危うさもあり、「ぼく」と「きみ」という対立図式をベースにして、間違うことの正しさ、安直な現状肯定ではない、ゴールインしてもまだ続く次のゴールに向けてのこと、途中、「お別れにむけて」という過去曲をふと想い出したが、あれは「向こう側」への「きみ」に向けての唄で、これは「こちら側」に居る、踏みとどまっている人のための唄なのが違う。
こういう箇所がある。
変わりたいよ って震えて言う きみは間違ってなどいない
一人で傷つく方ばっかり選ばずに 間違ったっていいんだぜ
進めなくなってもいい その場所がきっと最初のゴールだから
「間違う」というのは主客転倒すれば、戦争が正しいと言い張る世に反戦を唱えれば、それが間違いになる。きみの正解ばかりが世の中を潤せば、すぐに世界はすぐにダメになってしまうだろう。だから、彼の「間違ったっていい」というのは大多数の人があれこれ言って、もしかしたら、自分の考えや意見は弾かれる類いのものだとしても、それを恥じることはないということで、ただ、それで見えない大多数に潰れても、そうやって自分の考えや意見を持てた場所が「最初のゴール」と示唆する。
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この曲では何かに対して、具体的な言及はされない。
それでも、「過去など見たくもない 未来は見えもしない だから きみは今だけを見ようとして」や「悲しいフリしようとしてるやつばかりで 涙なんか意味もない」ときみの擁護/それ以外の排除のなかできみが背負う今と、“やつ(ら)“という茫漠としたフレーズで艱難な今を生きることの静かな肯定と切実な希求に向かう。
どんな出来事でも、もう涙が枯れ果てたという言葉を筆者はこの数年、いろんな場所で受けた。でも、その枯れ果てた涙と呼応するようにゼロ以下に戻ったかもしれないそこから新しく生き始めようとしている人たちも進行形で居て、力をもらっている。ボロボロになった写真を胸に入れて瓦礫処理に励むおばあさんや無くなった家の前に小さな玩具仕込みの家を作る子や人間の逞しさに自分が涙が枯れ果ててる場合じゃないとも思った。
深夜の空港のぽつんと寂しい窓から見える航空灯は時おり、自身の安心にも変わったときもあった。
きみの悲しみはきみだけしか触ることできないみたい
明日から もう 傷つく方ばかり選ばずに
ゆっくり行っていいんだぜ
ゆっくり行っても、急ぎ足でも着いた、目の前で飛び立ってゆく飛行機はどこかの誰かを迎えに行くのかもしれないし、去ってゆくのかもしれないし、それでも、それはなにも別れでも間違いでもない。