little by little to pass the baton

過労を抱える人たちの一様の理由は、「上意下達の難しさ」と言う。その人しかできない仕事が増えるほどに、しかも、抽象的に頭脳労働と呼ばれることが増えるほどに、どんどん用役は加算される。

ポスト・フォーディズム以降、極端にシステム化された単純労働と複雑な労働の差分は出てきたように思えるが、前者がブザーで管理されて厳しく工程をこなして、後者は高給の分だけミーティング・ワークに暮れるというメタファーは必要なくなり、もはや、「労働」することそのものの意味の再定義のフェイズに来ている。

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部下を怒れば、会社に来なくなり、家まで行くという同世代の管理職、限定正社員でもとりあえず生きなければいけない若い人たちの声、任期付きの教職や成果への歳月短縮化がはかられる研究職など、また、一旦、くだった転職の先の先に保障してくれるか分からない中、真面目によく出来る異国の方たちが総労働人口の割合を増やしてゆく。

自分があと倍生きる間に、どれだけの規制は増えるのだろう。自分はいいとして、まだ年端をいかぬ子たちが望むような社会形成への寄与ができるのだろう、何かとよく考える。

働くことは決して楽ではないものの、ときに大きなプロジェクトや仕事を終えたあとに、メンバーみんなで打ち上げるときの充実やささやかな遣り甲斐、自身のしていることが周り巡って誰かの生活をほんのわずかでも支えていることなどを励みにできる庶務も多い。その分、日々、容赦なく求められる課題やノルマ、次から次へと向かい合わないといけない新しい市場に向けての視野の拡大の速度もはやまっている。“安定して、のんびりと生活を保っていけるくらいの普通の“稼ぎを保つというのも存外、厄介で、スピーディーでハードな暮らしに病んで、田舎に戻り、何をしているのかわからない知己も居たり、30代、40代で「稼ぎ抜いて」、隠遁をはかろうとするクレバーな知己も居たり、毎日毎日を「生きた」ことで深呼吸している知己も居る。

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自助努力、自己責任という態の良い言葉で何か起きても、もう隣の家の状況は知らずにいないといけなく、何個もの仕事を掛けもつシングル・マザーの事情やその日にならないとシフトが見えない朝を迎える人たちのセーフティー・ネットは最終的にどうなるのか、想いは尽きない。

「若くて、使える人材」はとことん使い、寧ろ潰すくらいの勢いで過負荷になる。でも、その「若くて、使える人材」は実のところ、代替は効く。

冒頭に書いたこととは別にワーク・シャアリングや労働の配分はもっとできると思う。それは、資料作成の事務の方を雇い、細かい雑務をこなしてくれる右腕のような方を雇い、1を3にしても、総体的に効率はあがるだろうし、人材コストも大差はないと感じる。「1」を酷使する瀬ではなく、3にすれば、新しい2に何かしらの生活が生まれる。「自分がやらないと全部がまわらない。」と思いこむ時代から、「自分ができることをしっかり他の誰かに少しずつ教えて渡して、分配していこう」くらいの心構えでいれるように、とこの頃、想ってもいる。