今、なぜUSで『OK COMPUTER』なのか

もはや、映像学的に、監視カメラで張り巡らされた映像群の中で、手ぶれ込みのハンディカムの映像、8mmビデオ、高精度化したスマート・フォンの映像、それらの総合的なリミックス・ワーク的な「映像美」的な許容幅が増えましたのは、その映像を録っている当事者と同時間的自明性の再確認の追尾でもあり、被写体も過ぎゆくものゆえに、固定しようとする自意識の透過という忖度もできます。

日本でふと生活していますと、よく思いますのが「ゆっくりできる場所がない」ということで、シネコンやファーストフード、カフェでもそうですが、システム的に時間的な制約というよりも、長居“させない”ような仕組みになっていて、それは空間位相にも依るのですが、自身が2時間、少し書籍と考え事をしたいな、と思って、探しますと、存外なく、いや、ネット喫茶が、とかそういう話は別になりますので、遊びや余白としての喫茶店みたいな文脈です。昔なら、朝から昼までコーヒー一杯でずっといるおじさんが居ても不思議ではない光景があって、中国の北京やジャカルタやらでも何だかしらないですが、朝から晩まで外で碁を打っている、でも、なんとなく「成立」しているそんなところが好きだったりします。

好きだった単館映画館や書店、CDショップ、喫茶店もどんどんなくなっていき、どこかで見たことあるな、というものばかりになり、シャッターが降りた店には「都合により年内で閉店致しました」と手書きの紙が貼られているのを見ることも慣れながら、寂しくもなります。シネコンで区切られたプログラムで魅かれるものがない時の気持ちのように、乱立しますドラッグストアの意味もない商品陳列のように、ファーストフード店のカンファタブルなセットのように、自身がオブセッシヴに囚われている疲れが出る機会も増えました。

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自主的に買っているように見えて、買わされていて、踊っているように見えて、躍らされているというものに、自覚裡にいながら、クレーマーにならなくても、余計な自己主張はしなくてもいいのですが、周到なマーケティングや戦略の「裏側」には月のクレーターのように、呼吸さえ出来ない無空空間が現前しています。

それと少し繋がるかもしれないませんので、この前、近年、色んな方のブログやら情報をチェックしていますと、何故かUSで今、レディオヘッドの『OK COMPUTER』が再注目されているところがあるようなんですが、何でなのですかね、と異国の方に聞かれたのですが、なるほど、と感じましたのもあり、あくまで持論ですが、少しだけ触れておこうかな、と思います。

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USでは、サブプライムローン以降、オバマケア、QE3などの関係性もあり金融危機への潜在的意識が非常に高く保たれているといえます。また、日本のワーキング・プアやニート、以前の凄まじい格差と要は、ローンを払えず、ドロップしてしまった「家なき民」も増加しています。ただ、階級的なものじゃなく、メルティング・ポットとしての市場原理社会の象徴でもある国ですから、サルベージ・システムはほぼ機能していないところがある訳です。

田舎のシアターでのオルタナ系、自主制作映画の乱立振りや、ウォルマートが何処でもあり、ハンバーガーやGAPが幅をきかせる世界、といいますのはもうオールド・レフトの幻想ではなく、現実そのままであって、更にそこに、シリコンバレーがネット集約型ではなく、アグリ・ビジネス、資源ビジネスに急速に向かっていながら、ウェヴの発展が富たる層の投機ゲームみたくなり、SNS絡みでは犯罪が増えつつあるのには、困窮した承認欲求やコミュニケーション欲求の亜種でもあります。)それは日本もそうともいえますが。)

私が、面白いと想いましたのは、以前にNYに行きました際にこっちの大量家電店みたいな店でのCD棚を確認しましたら、勿論、レディー・ガガカニエなどが置いてありつつ、NIRVANAPEARL JAMメタリカなどもあったのですが、いわゆる、UKのロック勢で「見受けられた」のは、かろうじて、ゴリラズ(これも微妙ですが)と、めぼしいものはコールドプレイと、ミューズ、レディオヘッドくらいでした。さらに面白かったのが、レディオヘッドに関しては『OK COMPUTER』と『KID A』しかありませんでした。

チャート・アクションで言いますと、全世界的に「一位」になったのは、『KID A』だった訳で、『OK COMPUTER』はピンク・フロイドの『DARK SIDE OF THE MOON』のようなチャートにずっと入り、結果的に600万枚ほどを売りましたアルバムであり、評論軸、RADIOHEAD界隈、ロック・フィールドでももはや盤石の位置を示すアルバムなものの、「いきなり、理解された」訳ではなかったということはあります。

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しかし、現在進行形で、ネット的な何か、コンピューター的な何かがまったくイロニー抜きに「OK」になるにつれ、なにかしらの情報不安神経症になりつつある人たちの潜在欲動とでもいいましょうか、そういったものが地表化してきています。「OK」 COMPUTERは当初からイロニーでもあり、情報過多の社会による神経症的なモードと、「移動」の連続がもたらす心理的な不安を音像化した内容でもあり、『KID A』はそれをポスト化すればさえ、良かったアルバムでCOMPUTERに「埋もれた」アルバムとも換言できます。

また、USインディー系、サバービアの青少年はこの街を出たいけれど、出られない、ネット越しに多くの情報にアクセスし夢想を拡げる位相で『OK COMPUTER』にアディクトし、その不穏でやや病んだ世界の輪郭が現実生活と融和してきているのを「体感」として再更新している、とも言えるかもしれません。これは、無論、ユースだけに限らない話として。

そういう意味では、掃いて捨てるような情報群、必要か不必要かもわからない選択肢に囲まれて、それでも自分たちは「まだ、正常でいられるのか」、「この先の未来はどうなるのか」という意識を確かめるために、『OK COMPUTER』の評価を定めようとして、更にそれをベースに価値観を再定義しようとしているとも思える部分があります。私自身は、今のレディオヘッド然り、『OK COMPUTER』が受け入れられている世の中とはやはり幸福とは想えないのですが、『OK COMPUTER』的な価値観の細動には興味深い所はあり、撃てる仮想敵は増えれば増えるほどいい、とは感じています。

Ok Computer

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