インテリジェンスの多寡

日本ではまだ誤解釈が多いですが、「インテリジェンス」というものがありますが、要は「情報を切り分ける能力」と強引に対象化して良いと思います。

今や、いつかにH・G・ウエルズ『タイムマシン』で描かれていましたような「美麗で知的ながらも脆弱な地上族」と、「粗野で肉体的で愚鈍な地底族」なんてメタファーを援用しなくても、「ヤンキー(マチズモ的な)/ファンシー(抽象的な)」二元論にも結局は至らず、“ぼんやりとした絶望感”が惹起せしめる「ああ、自分はこの先、浮上できるんだろうか」という無力感が覆っているために、速度だけが重力を無視して上がっている、そんな気もします。その無力感が上から下へ通達してゆくと、ほんのささやかな子孫の問題や未来の問題、そして職柄の問題にまで至ることになる訳ですが、島耕作も「学生」までが描かれ尽くす時代、しかしながら、後期高齢者制度、所得格差、非正規雇用の深刻度、過労死、進まない復興施策、グローバリゼーションが通奏低音として響きながら、インテリジェンスを持つ層は有意な情報を捌き、外へ出てゆく風潮が既に出てきています。その「外」とは既存市場の外。

例えば、10年前までは「ブランド」でのみ屹立していました「象牙の塔」が沢山あり、そういった「象牙の塔」は皆、よくは知らない所でいまだ、あちこちにあります。近所のショッピング・モール、学界、チェーン店、扉を開ける前から扉側が「一見さん」を断っている風情。しかし、その深層を踏み込まずに中で戯れてみれば、上納されていくは各々のお金のみならず、時間や人生。となると、自分がしていることは誰かにさせられていることか、となると、6:4でNOだとも思います。

それでも、言えるのは、過剰に「自分が自分でこの轍を築いた」と想い込まない方が良いという事でしょうか。規定価値は通じる部分と複写する部分が明確に分かれてきています。禍福は糾える縄の如し、とは精緻にはもうズレがあるアフォリズムで、善悪、正負は捩れながらもウロボロスの蛇のようにお互いを侵食し、最後は消失するのかもしれません。

数年前に、自覚裡に「経済学」とか「MBA」どうとか投資がどうとかの時代はもう何年か、で終わると思っていましたら、日本のビジネス・スクールも厳しいところが増えました。そして、心理学とか哲学とかもっと「曖昧な学問」が現前するという予想は外れ、教育学部看護学部、薬学部などの資格が取れて就職に或る程度、困らない学部が人気になってきてもいます。

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最近の汎的なポップ・ミュージックを聴いて想うひとつは、東浩紀的な「動物化」の先の、欲望の集積としての人間の様態に付加として逼迫した情報量が在る有様と言えます。

「情報は変動し、自分は変わらない」というのは逆で、「自分が変わり、情報は変わらない」のです。昨日撮っておいたNEWSを何度観られるように、そして、その観る自分は「昨日と違うように」。そして、You Tubeやらあまたのサイトに埋め込まれました「過去の集積」が現在進行形の今を脅かしていく中で、切り分けていく匙加減は経験値ではもはや、ありません。

それでも、「インテリジェンス」とは情報収集能力の存否を問うものでもなく、そこにはナレッジ・レバレッジ(知識の天秤)の加減が要求されます。天秤とは、無論、経験を含みます。「戦争を知らない、知識人」が戦争の惨状について語りますと偏向が生まれてしまうように、しかし、経験至上主義では零れてしまうものがあるように、これからは経験と知識と情報の三角関係から編み出す裁断がよりシビアになってゆく想いでいます。そして、「いつか」、そのいつかは理解らないものの、とてつもなく峻厳な、平べったい「地平」はもう拡がるのは間違いないのかもしれません。それが、安易なディストピアか、そうではない何かは少なくとも私には理解らないのですが。

タイム・マシン 他九篇 (岩波文庫)

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