序文:「そういえば、ランチに行こう」

始まりますと、もう始まりますので、これは序文です。

連載を受け持たせて戴くようになりまして、初めてのグルメ・エッセイという冠詞ですが、あの、ミシュランはタイヤ・メーカーなのを知っている方もおられるとおり、給油のためのガソリン・スタンドがセルフになってしまった日本で、今、グルメを標榜するには、自分の縄張り確認になってしまうようなところもあります。

ある料亭で「お任せで。」って言いまして、その「お任せ」に偽装食品が混じっていて、後で憤懣するという大人気ないことは抜きにしましても、現在でグルメであること、美食家であることに尊厳はどれだけ価値があるのでしょうか。それこそ、PCのフォルダ内に分割される膨大な写真やデータの中の一部でしかないのではないような気もします。

デート、会食となりますと、ぐるなび、今だと食べログ、ガイド・ブックを参照にされると思いますが、クーポンを見せる前に、星が3つだから安心っていうのは他者の個的評価ですから、その他者性と自身の懐具合と感覚の乖離を弁えて店を決める導路も必要なわけです。

この連載ではお店の紹介もしていきますが、それは例えば、水族館マニアと動物館マニアの対立のように、森ガールと山ボーイの齟齬のように、不毛にして、なんて無意味なんだろうということも含まれてくるでしょう。かの北大路魯山人山本益博の託言を承継して、「そうだ、ランチに行こう」と思うにはランチに行く場所はオフィス街や決まったチェーン店に決まっている、そうじゃない想像力を食にも預託してみようという編集者の方のアイデアで私も薀蓄もそうですが、たこ焼きって例えば、ラジオ焼きって言って、今みたいにドロッとしてマヨネーズかかって大きくなかったよね、みたいな歴史考証学まで含めて、横断的には筆を進めます。つまり、フォアグラ、トリュフ、キャビアじゃなくて、カラスミコノワタイカの沖漬けも三大珍味として、タイトルは「そういえば、ランチに行こう」としました。そういえば、ってひらめきが世の中の消費市場を動かすのではないかという想いもあり。

昔、パリでスーツでタイ着用以外お断りの店にノータイで入って顰蹙も買った経験もある自身としましてはそもそも、その非常線が見え辛いのかもしれませんし、とはいって、逆に自分が得意分野の話題を振られると、無難に表象するのと同時に、あくまで「寛容に」振舞うし、なんて思い当たるからして、その遣取りの中で潰瘍的な倦んだ感情が結していくのかもしれません。ちなみに、私の写真フォルダには「水族館」というものがありまして、そこを紐解くと、あまたの写真が数多出てきます。その度に、陶然となってしまうのですが、最近、水族館フェティシストというのも絶滅種になりつつあるのかしらん、と周囲の方々と話していると感じます。

そもそも若い時分にデートって言いましたら、遊園地とか水族館とか行ったもので・・・なんて事を言い出し始めると、年齢をいってきた証拠なのでしょうか。しかし、デートとしての場所要素因を差し引いても、あの水族館特有のアンニュイでダルな感じって潜在的に日本人の血に流れているはず、と信じてやまないのは(かなり)本当です。水商売としての水族館。

この前も動物園フェティシストの方とつい論争になりましたが、兎角、その方が言うには、動物園に比べて閉塞感が少ない、室内灯の微妙な翳りがダメ、比較的伸び伸びと魚(等)が泳いでるのが苦手なのだそうで(苦笑)、独哲学を修めているその方からすると、ウィークデイの午後辺りの動物園のあの退廃的なボアダムスと動物園のそんなに美味しくないレストランでカレーでも食べながら過ごしていると朱鷺の一声が響いたり、というひと時が最高だという事です。いや、理解らなくもないのですが、水族館フェティシストとしては狷介固陋な所があるのでついつい譲れませんでした。

そんな序文と致しまして。