「当たり前」を考え続ける難しさ

義務教育は、「義務」であって、ある種の強制性を帯びます。

文部科学省教育基本法第4条に記されているとおりで「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」

そして、九年の普通教育とは、「通例、全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育を指すとされ、義務教育と密接な関連を有する概念である。九年の具体的な内訳については、教育基本法は特に規定せず、学校教育法に委ねている。」と記載され、学校教育法へ下部委任されています。「教育基本法」はネイション側の法ですから、構造内では問題ない訳ですが、では、この年齢になりまして、九年で、その、一般的・基礎的な、職業的・専門的”でない”教育は育まれるのか、よく見えなくなってもいます。

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私の義務教育の時期は丁度、業者テストが導入などの端境期でありまして、また、同時に、択一式試験、詰め込み型教育システムの残響が残ってもいました。だからといって、「ゆとり世代」がどうとかでは言及するつもりはなく、その義務教育という期間を経てから、権利(これは行使するサイドの言葉です)としての「教育」を改めて自身で選択するときに高等教育機関や専門教育機関と呼ばれるものが何を呈示できるのか、何がそこで行なわれるのか、ずっと私は懐疑的にあり、今でも、それは拭えず、結局のところ、大学という場所を出て、「新卒」という枠の中での就職率や、就職先が名の知れたところを並べてそれが大学評価に、学歴評価に繋がる、でも、その先は「自己責任で。」というのが現実でもあります。

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「自己責任」というのは多面解釈がきく言葉で、自分が引き寄せた道だから、自分で切り開きなさいとも捉えられますが、自分で勝手に幕引きしなさいよ、ということであり、その際に護ってくれる「何か」はあるのかといいますと、実のところ「ありません」。

国が「国民」を護ってくれるのか、というのは社会保障という面ではそうかもしれませんし、私が日本は医療制度や福祉制度で互恵されているな、というのは数多、感じてきました。その分だけ、他国で明らかに敷かれたコード、階級で分かれた中で生きる自身に振られる「自己責任論」には納得いかないことが多くもありました。

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「社会人になった人たち」はサラダ・ボウルのように、広義の社会で攪拌されながら生きる訳ですが、生活するために稼ぐのか、稼ぐ中に「生活」が育まれてゆくのか、そして、もしも、その選んだ道を軌道修正しようとしましたとき、全く「自由のきかない」瀬も想います。情報の非対称性はここでも出てきます。多々の経験や功績を残してきましたり、繋がりがある人が何らかのスライドが出来る「可能性」はあるものの、社会は利害「関係性」なので、軋みは必然、生まれます。そこで、みんな、「ふと学び直したくなった。」と思ったとしましても、時間的都合、経済的与件でやはり難しいのが現実です。

00年代後半時期、乱立しだしましたロースクール、ビジネス・スクールとはそこから、法曹家、MBAホルダーを育成しようという試みで、今にも繋がりますいわゆる、グローバル人材教育の日本国内での閉じながらも(基本、日本の教育システムは今でも内向きです。英語教育然り。)の一端だった訳ですが、私が少し覗きましたビジネス・スクールの講義は決してレベルの高いものとは言えず、また、同時に集まっている人たちは相応にプチ・エリート、少しの富裕層、もしくはセカンド・ライフ層でした。

会社から補助が出てきている人材は「優秀」でしたが、考課、評価、日々の組織内活動に追われ、やはり、来られなくなるケースが多くなり、そこを越えてゆく人たちは職位を上げていったとも言えますが、身体を壊し、手に入れました職位から別位にというのはたびたび聞きました。

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今でも、親の子供になってほしい職業には公務員、学者などが並びます。公務員とは「公務」ですから、原義として、生産者側ではなく、維持側です。それは「仕事」として勿論、素晴らしいと思いますが、生産してゆく人たちがある程度、他に憂慮することがなく、労働していける、また、結婚して、子供を育てていける社会スキームがあるか、といいますと、私は判断に困りますが、峻厳になっていると言わざるを得ません。

では今、グローバル人材を育もうという風潮が出てきてまた、一部知識人層は仏のバカロレア方式の導入を国内教育に導入を、と言っています。しかし、バカロレアとは「思考力」を試す試験であり、答えを求めるものではない分だけ、基礎教養面での強度はあやふやになります。インドがどういいましても、日本の数学的基礎知識や他の国に比しまして識字率の高さは「義務教育」の与件に準拠致します。1回だけでのテストで全てが決まる、そういうのは変わってゆくべきでしょうが、選択方式の試験は「決して、無駄ではない」ことも多くあります。

つまり、解がひとつ、という形式論も数知れずあるからです。

社会に出れば、解はひとつではないよ、という向きはありますが、実のところ、解は結果的に「業績」によります。業績は「視える化」され、或る程度、組織内/外に共有され得ます。そうなりますと、あの人はあの面では秀でているけれど、社交性は、とか、事務作業に向いているな、とかが出てきて、そこで再配置やHRMは的確に行なわれるはずなのですが、そうではなく、結局、誰かの好き嫌いやルーティンで配置替えや任務の置き換えは行なわれることがままあります。

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70歳を越えてセカンド・ライフを満喫しています自分の父親の世代も「母数」は多いので、何かと会合があっては飲んだり、山を歩いたりして、それを見まして、私たちの世代は「暢気で良いものだな」、と言い切れないのはそう目に見える人たち、世に出ている人たちはこれまで何らかの犠牲と努力と、そして、現在では健康との駆け引きもあるでしょうし、そういった面で、勝ったから目に入る訳です。

同窓会に出る人数が減ってゆく、それは「出られない人」の状況を慮れば分かりますように。働き盛りでの同窓会も、あまりいい意味でなく、「同窓会に出られない人たち」も居ます。過ぎたら、全部、水泡に帰すよ、というには30年後、40年後の歳月とは存外、重く長いものです。

きっと私たちの世代がこれからの世代に向けて、何かしら啓蒙していかないといけないとバトンが渡されもするのですが、現実、そういう場所に辿り着いたケースは過重負荷になります。そこで職務の再配分を、と言いましても、「潜在知」内での評価能力も包含されますから、「あなたしかできないのだから、それはあなたがしなさい。」となります。単純労働と複雑労働の差異は暗黙知の是非論にも至りつつ、簡易な二元化は出来ないのですが、“識っていること”が増えていった人材はより求められるようになります。そういうディシプリンも受けるからです。

むろん、そういった人たちばかりで形成されないのが社会で、例えば、バーで色んな人たちが飲んでいて、職種など聞くことなく、お酒をおごってもらったことがありました。そういうのもコミュニケーションだと思いますし、私なら音楽のフェスでビールをおごったりするときに「利害」は付与しません。共有圏で、そういった利害を織り込むのはまた別枠のことだからです。ただ、当然に利害が発生します会合では席の配置、料理、配慮、スピーチ、多くの細心を配らざるを得ません。でも、「席の配置」―例えば、上座、下座などといいました知識は要る知識、形式的知識ではなく、暗黙知の承継で成り立ちます。グローバル社会では「何でもフラットに。」というケースも増えており、私もネクタイなしで適度にやれる懇親会も顔を出すことがありますが、それでも、値定めのための懇親会でもあり、コードが敷かれています。多言語が話せること、一定の教養、エスプリがあること、洒脱であること。矯正されました視野での鳥獣戯画グローバリズムの産物と称するのは浅慮でしょうが、一体、私にはグローバル化とは何なのか、その実、よく分かっていません。多くの国へ、多くの国の人たちと話すことで痛感するのは、結局は、「花鳥風月の美しさ」や「子供の無邪気さ」、抽象的な思考、文化的な事柄だったりもします。映画や音楽について語るように、経済を政治を語るのはそう変なことではなかったりします。

しかし、そんな”寄り道”が許されずも進んできた人たちも枚挙にいとまがありません。シンクタンク、大学院、研究者、専門家って何なの、と問われるのはそれは抽象性もある程度、帯びているからです。「何か」目に見えたものを生み出した人たちがやはり美しく映ってしまう―それはあります。だとしても、数式をごちゃごちゃ一生編んで、一部にしか読めないテクストを書いて、生を終える、そんな人たちもザラです。

そういう諸々をもっと詰めていかないといけないと想う年の瀬です。