【REVIEW】sonicbrat『Stranger to my room』

昨今のニューエイジ、ポスト・クラシカルと呼ばれるカテゴリーでもないが、そういったジャンルはよりエレガントになってゆき、もはや、アート的な要素をどんなジャンルよりも交叉させており、その貪欲さも面白い。現代音楽やミニマル・ミュージックといえば、その難解さや解説書、理論書から得るイメージは芳しくなかったところもあったかもしれないが、武満徹ジョン・ケージライヒをもはや、前衛的といえないように、多くのポップ・ミュージシャンに彼らの音楽は受け入れられている。古典へのセンス解釈だけではない、どころか、アンビエントやチルウェイヴ、IDMの近年の波とシンクしながらも、ネット上だけで完結しない総合芸術として、新しい古典への距離を縮めていった。ダスティン・オハロラン、ハウシュカ、ニルス・フレーム、コリーンなど日本でも人気の高いアーティストのみならず、その絶妙な「静」の雄弁さと、ピアノやアコースティック楽器、ときに弦や電子音を交えた人懐っこさには、すぐ傍らに作り手の息吹が聞こえてくるようであり、どんどんジャンルそのものは溶解していってもいる。

例えば、ウォルター・オング著『声の文化と文字の文化』(藤原書店)に倣えば、声の文化はオラリティ、文字の文化とはリテラシーのことをいう。「声の文化」に対し、オングは懐かしさを追求しようとした訳ではなく、録音物、メディアから複雑に縫う“第二”、ともいえる声を聴き取ろうとした上で、ポスト・クラシカルがときに、聡明な匿名性を保つのは近代病でもあったのかもしれず、名前を消すことで、声の文化を活かすのはボカロはじめ、推察できないこともない。今は声に溢れているが、その声、つまり、オラリティの原型を保存する立場が多いとは言えない。

端整なアート・ブックに包まれた『Stranger to my room』は、視覚効果も使い、声を響かせようとする。もちろん、第二の、以降の具象的な声ではなく。シンガポール人の作曲家としてデーレン・ソーは既に、00年からキャリアを重ね、舞台芸術からアート・シーンまで沢山の音楽を提供し、フリーダウンロードできる音源もあまたある。このソニックブラットの名義は04年から使い、ミニマル・ミュージックの再解釈と再構築、そして、即興演奏、微妙なノイズの効果をはかっていたが、これがデビュー・アルバムとなる。ヘルシンキ在住の女性アーティスト、アイウェイ・フーによる写真、アート・ブックの装丁は部屋を巡り、窓から差し込む光や、モノクロームの風景、森、ウサギの雪だるま、などの写真がカット・アップされており、「The Listening Room」、「Being Air」といった曲名と呼応しているかのようで、美しい。

そして、なにより重要なのは、どこにも人が映っていない。

11曲中、ナタリー・ソーのヴァイオリンが入った「Temporal」を除き、彼の自宅内で、自由に録音されたもので、たおやかなピアノをメインに、弦楽器から自然音まで無規則めいたところはなく、ナイーヴに「配置」されてゆく。なぜか、この音像には「配置」という言葉が相応しい気がするのも、あらかじめ、デーレンの部屋を知っていたかのような、どんな場所でも、自然とどうしても残る慕情のような、何かが要所に感じられるのもあるからで、それは声を発せずとも、よく聴こえてくる。

私の部屋へ、ようこそ。
でも、ストレンジャーの方で、というアルバム・タイトルからして、そこには誰もいないのが前提の音楽である。だからこそ、懐かしくも感傷的になってしまうのかもしれない。

ポール・ヴァレリーの有名な詩「La Jeune Parque(若きパルク)」の一節に“Tout-puissants etrangers, inevitables astres,Qui daignez faire luire au lointain temporal,Je ne sais quoi de pur et de surnaturel(筆者拙訳:全能たる異邦人、宿命を持った星々は遠く離れたところで時を同じく、自然を越えたなにかを輝かせているものたち”)という箇所があり、“私”はそれらに対して希求を投げ込む。

では、この作品に投げ込まれるべきものは。きっと、誰しものほんのささやかな、日常、生活の一部なような気がする。

Stranger to my room

Stranger to my room