『風立ちぬ』―ロマンの鈍い意味

宮崎駿という作家としての業と、その商業的・芸術的評価の乖離はよく考える。例えば、ナウシカの原作の漫画を読んだときのマッドに振り切れた救いのなさ、それは手塚治虫が「ヒューマニズムの人」とある側面で称されようが、生命の極北とそもそも、虚無をあそこまで描いたのと似ているものの、宮崎駿の場合だと、スタジオ・ジブリ特有の、あの“丸み”を持った、特にアニメーションとして結実した際に見せる緩和的役割によって、聴き手に重さを付与しない。

だから、「魔女の宅急便」や「となりのトトロ」が親子で観られるのと並行して、どうにもいびつな「千と千尋の神隠し」のような作品まで包含し、位相をねじらせる。

その宮崎駿の2011年1月の企画書(http://kazetachinu.jp/message.html)に沿い、自身としても相当な想いを込めたという、この『風立ちぬ』によって、ようやく分かりやすく、彼のエゴと妄執の手の付けられなさに向き合える。冒頭、フランスの作家のポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の一節である“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”から、堀辰雄を召喚させる。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。結核を患った婚約者と「私」を巡る初めから死を見据えた「生たる何か」を問うた古典。そこからのモティーフを存分に散りばめながら、今回の映画のヒロインは堀自身の最後の長編作品の“菜穂子”(ロマンの象徴)が取られている。

兎に角、虚実が綯交ぜになりながら、その現実と夢の入れ子細工の構造は、細部への異様なまでの輻射を観衆に要求する。何度なく出てくる、飛行機の映像、サナトリウムの寂しさ、緑、自然、太陽。しかし、今回、個人的に不思議だったのは「食事」のシーンが極めて少ないことであり、レストランなどでも、「何かを食べる」ということで、これまで描いてきた何かを省くことで、フォーカスをぼやかしている(つまりは、シーンが速く動いている)。

軸としては、主人公の堀越二郎の少しの紆余を含んだ、しかし、基本、スマートな生き方。夢の中で何度と会うイタリア人の設計技師のカプローニ、飛行機は武器を乗せるものではなければ、という想いの先に、しかし、堀越二郎零戦を作り上げる倒錯。倒錯に、倒錯が重なっていった結果、主人公は「10年」と大事な何か(菜穂子と具体的に出すのは違うのは、観た人なら分かると思う。)を喪い、それでも、という今回のメイン・フレーズ的な「生きねば」というのは、きっと近眼で初めからパイロットになれなかった主人公が利他といってもいい、設計という部分で歩みを進め、技術を高めてゆく生の中に恋や失意が混じってくる、そこでの「生きねば」であり、荒井由実の「ひこうき雲」でしか有り得なかっただろう、かの印象的な歌が流れてきたときに、ふとロラン・バルトの『明るい部屋』の“sens obtus“が脳裏をよぎった。”sens obtus“、鈍い意味と訳してもいいだろうか。

鈍い意味とは、イメージとエクリチュールの間に出てくるもの、そして、受け手側を引き付ける中心でありながら、「読むことが出来ないもの」として機能する。つまり、文化的文脈からの読解は難しくなり、付加的な意味や取るに足りないものに「自明性」が出てくる。だからこそ、堀辰雄、飛行機、魔の山などの断片を繋いだフィルム片が降りてゆくのはあらかじめの、死であり、その死への敬礼でもある。

僕は感極まったのは、クライマックス的なところでは全くなく、物語では無関係なところばかりだった。ゆえに、全体性を取り戻そうしながらも、細部を生きる宮崎駿という人にほんの僅かばかり感応できたのと、「食事」という祭祀性を極力、抜くこと(「千と千尋」の食事シーンを思い起こせば早いように)で、ストイックな行間も生んでいる。

とても、悲壮で美しい通奏低音が貫かれながら、この記号だらけに埋もれた「2時間」を僕は少なくとも、笑えない。