Yosi Horikawa『Vapor』―ゼロではない生々しさ

寄稿させて戴いたのを、ここに転載しておきます。

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冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのではなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのもでなくてそれが時間というものなのである。

(『時間』、吉田健一著)

スマートフォンでも、カメラでもいい、シャッターが切られたあとの映像は、そのまま経過するのかといえば、違う。シャッターを切るという行為は一回性のもので、例えば、集合写真を撮るときに撮り手が「念のため、もう一枚」と言ったときのその前の一枚の間には、Audible(聴取可能)ともいえる沈黙が生まれる。不可逆性の時間に対して、在ったのか/在ら“なかった”のかの二線。在る、の対に「無い」はないからであり、それはボリス・ヴィアン『日々の泡』みたく、描写がオブジェ化したときこそ、“無ではない何か”しか残らなくなるからで、このYosi Horikawaの初のフル・アルバムとなる『Vapor』でも、エレクトロニカ、現代音楽という枠で捉えるには、幾つものオブジェ化した別の美しい音があまた聴こえてくる。

オーストラリアのアヴァランチーズが900ものサンプリング・ソースを使い、ロマンティックでメロウな作品を上梓したり、近年のコーネリアスは自然と無機性の絶妙なリンクを現代音楽風の小難しさではなく、ポピュラー・ミュージックとして呈示してみせたり、と、近年、その音はその音として、その時間はその時間をなぞり、単純なまでに気化しまうまでの、猶予を約束するものが目立ってきてもいる。猶予というのは、「自然」と擬態する。

Yosi Horikawaは、日常の中の音を積極的に取り入れ、サウンド・デザイナーとも表され、国内外からもその作り上げる音楽には評価が高い。ただ、日本よりも先に仏でディグされるなど、アート性の高さやそれこそオブジェ化した音風景に耳をすませる層に届きにくかったところも否めないが、この『Vapor』では、そういった取っつきにくさを越えて、ただ、聴いているだけで、また、アルバムを部屋で、外でずっと流しっぱなしにしているだけで心地良さと気付きがある、そんな、瞬間が幾つもある。構成や水の沸き立つ音、地面を踏みしめる足音、鳥の囀り、蝉の声、カエルの鳴き声などを巧みに組み入れた音の編み込み方もアルバムというレングスならでは、の面白さがある。

彼自身はインタビューで、自分の耳で実際に聴いたものと、録ったものの差異への細心さを述べる。実際、耳がそのまま感じた音は再生しようとしたら、無理といえる。だから、彼は「加工」してゆくことで、その最初に感じたそのままではない、新しい体験を再生可能にする。イントロ、アウトロを含めて16曲、それぞれにシンプルな単語の曲名が付けられている。「Splash」では実際の泡音、「Letter」では手紙を書く音が聴こえる。そこにオリエンタルなリズムや映像喚起をさせるようなアレンジメントが活きる。

時間は、0から1にはならない、その0ではない何かを漂流する。その意味で、『Vapor』は時間に真っ当に対峙した「加工された生々しさ」が心の琴線に触れる。

【Yosi Horikawa】
soundcloud https://soundcloud.com/yosi-horikawa
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Vapor

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