KANYE WEST『YEEZUS』

WASPというアクロニムをこの10年代にあえて表に出すことは、何らかの反語要請を含む。肌の色から、ポリティカル・コレクトネス(PC)的に保守的であることと言おうか、貧富、地域、経済格差を越えたZIPコードで守られたコミュニティ形成に関しての導路を敷くだけではなく、オバマ再選以降の難渋な集態状況を指すには、カラードをどう仮設するのか、明定されるべきであり、クリント・イーストウッド監督の映画群が仄かに醸す“あの”感じに距離を持てるのかどうか、または、アラブの春が全く異化してしまう作用について考える契機にまで延焼する。

“延焼する”ということは、公団住宅にも危機が及ぶ。ジェイク・バグがUKで唄った「公団住宅」とは別に、アファーマティヴ・アクション的に優遇されるトライヴが例えば、このカニエ・ウェストの新作を支持しているか、といえば、難しいだろう。

カニエの悲しさとは、シンプルに愚直にステップを踏んでゆくことで、「ナラティヴが出来上がってしまった」ということでもあり、現代以降でナラティヴ回収されるアーティストの悲劇は枚挙にいとまがない中で、彼はジョン・レノンのようなイノセンスとイロニーではなく、もっと朴訥な知性で、一つずつの作品に対峙してきた。

大学中退から、卒業までの三部作、大ネタを駆使し、ジャケット・デザインに村上隆氏を招聘し、決して巧くはないながらも、「伝わる」ライムを踏み、どこかしらの誰かに響くように紡がれたあと、オートチューンで声を加工しまくり、朗々と歌う08年の『808’s & ハートブレイク』における元・婚約者との破局、母との死別という極私的な世界観へと捻じれた彼は、ゆえに、次作となる冗長なまでに作りこんだ『マイ・ビューティフル・ダーク・ツイスティッド・ファンタジー』で禍禍しくエゴを肥大させ、それまでの作品を対象化するような悪夢めいた過剰な細部への降下へと向かった。

ショート・フィルム「ランナウェイ」で見せたB級感、天使と悪魔のモティーフ、キング・クリムゾン「21世紀のスキッツォイドマン」を混ぜこみ、ジャスティン・ヴァーノンのあの声を求めた。結果、アメリカ社会でアフリカ系として生きることのカルマのみではなく、人間の下にうごめくドグマともいえる自己被虐と自己愛的な何かの狭間で揺れたまま、最後の最後に《Who will survive in America?(アメリカで生き残るのは果たして誰なんだ?)》と問うた。暗い幻想、スラム街、21世紀の混沌、すべての光、クレイジーなセルフ・エゴ、リビドー、宗教観、感傷を経ての、柔さ。

だからこそ、今作の『イーザス』は“生き延びた(HAD SURVIVED)”あとから始まっている。生き延びたのは、彼でもあり、この作品を聴いているあなただろうか。それにしては、“あなた”に照準をまったく合わせた作品ではなく、名うてのリック・ルービンと組んだにしては、非常に「聴き心地」が悪い。ダフト・パンク、ハドソン・モホークなどの参加により、エレクトロ要素は強まったが、音圧の刺激をパッシヴに聴覚と五感に訴求するようなエディットになっており、フックの多さよりも好戦的なトラック・メイキングが目立つ。そこに乗るのは、やはりカニエらしいシリアス過多というよりも、アナロジーと素朴な感情吐露に傾斜するリリックであり、「I Am A God(私は神だ)」と言い切ってしまうにしては、行間におかしみも漂う。

おかしみ、というのは、“トクヴィル的なアソシエーション”への示唆が欠落しているようなところがあるからだ。彼の『アメリカの民主政治』での、(近代的な)アソシエーションはギルド、教会、共同体など諸々が帰属する伝統的共同体(旧/中間集団)ということであり、アソシエーションはこれらの共同体が衰退するなかで原子化、無力化した諸個人が社会的影響力を回復するために、組織する自発的集団との意味が付加される。つまり、「旧/中間集団」が衰微した社会内ではアソシエーションと、平等との間接には必然的関係の存前がなされるはずで、その自由は社会的マイノリティの尊重といった次元ではなく、相互関係性により発展可能になる。

となると、急進的に『イーザス』へと向かった彼は、在前するUS内社会的マイノリティの代弁者としてマスたるホワイト・アメリカへ刃を研いだというのは浅愚だとも思う。でないと、「ブラッド・オン・ザ・リーヴス」で、ビリー・ホリデイの「奇妙な果実」ではなく、ニーナ・シモンのカバーを大胆にフックはしないだろう。ソウル・ミュージックへの敬意、また、ジャスティン・ヴァーノンの声も再度、召喚しながらも、この歯切れの悪さこそがカニエの本懐だという気がする。

彼は、ジョブスでもディズニーでもフォンダでもない。

しかし、そういう位相からズレた場所で、神的ななにかへの近接とブラックたる権利の奪回と、個人的な内省感情を織り交ぜて、でこぼこな自身の轍の更新として前に立とうとする姿勢は憎むことが出来ない。USでは既に、批評され尽くされているきらいもある作品だが、それは、人種の坩堝たる社会が内容の是非をしっかり、政治的に、無論、ポップ・ミュージックとして、俎上に挙げている証左であり、では、カオティックにグローバリズムが進捗しながらも、アソシエーションに関して意識的ではない層がどう反応するのか、興味が募る。多文化次元的に、または、ひとつの物差しでは決してはかれない奇作になったと思う。

Yeezus

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