混線を抜けた道まで

楽になる、と、
楽にする

時系詞を辿ったアナロジーではなく、例えば、学生時分、夏休みの宿題があったとして、7月に大半を終わらせると、8月は「楽になる」。ただ、「楽にする」ためには今瞬間の辛苦や努力はすぐには報われない。何故ならば、自身を楽にさせるのは周辺環境もあるが、自身の多寡でもあるからで、職種が違えば、辛さや責務は違う。

それでも、用益、便益を1.0をこなしていれば、成り立つ社会はなく、それ以上の対価を持って、償還される。償還されるのは具体的金銭か社会的地位か、はたまた、休息か、それ以外か。安定雇用をシステム化するには、現代ではポストがかなり少なくなっている。

何故ならば、ホワイトカラー層が出来ていたものが代替出来るようになったからで、そのポストを奪い合うにはヒューマン・リソース・サイドのキャリアや潜在知などが関わってくることになる。

「自由並列主義社会での椅子取りゲームは過酷だ」、とかの紋切型ではなく、その人がやれることはその人がやらないといけない、というだけの自明性であり、要は「これ」というものがあれば、どこでも飛べる。それが国境線や言語線であっても。

しかし、昨今のグローバル人材育成の喧しさと阻害されて違うのは、グローバル人材が最初から外向けに内側を時にないがしろにするように、最初から英語で教育するならば、日本語をマスターしてから英語や多国語に至り、そこでの自己投資で、外向けなのか内向けなのか、決まってくるからで、国際貿易関係に属しても、自国の事務処理に長けている人ならば、あえて出る必要はないとも思う。きっと、そこに居ても、ここに戻ってこられなくなることはない。

戻ってこられなくなるとしたら、そういう風に制度改革が為されたというだけで自己責任論にはいかないはずで、今は、どんなものでも自己責任に還る節があるものの、自己とは非・自己との関係性によって初めて成立する。

○○さんと、××さん、そして、「私」の連関性で、その○○さんにとっての「私」、私にとっての「××さん」が浮かぶ。だから、誰々の話をしても、共通項がなくなっていけば、当たり前に通じなくなる。法律やニュースはそこを繋ぎとめるものであったのかもしれないが、その咀嚼速度も差異が生まれ、では、例えば、TPPは何なのか、となると、どうにもぼんやりと障壁が生まれる。農業分野にとってはこうだ、と思っていても、いや、医療、経済、人材面でも待てよ、となると、こんがらがる。

混線した中で、肩をぶつけ合っているのが、この当世なのだと思う。今、「楽になる」ために、何かを諦めるなら、いつかの自身を「楽にする」ために、何かを信じた方がいいという気がする。