帰り道の途程

ラッキー7”も“末広がりの8”や数字や精神論には基本、無縁なのだが、どうも7年周期で自身に危機はあり、厄年などもそういった年齢で性別でしっかりとした裏付けがあるとかの話を医者の方に聞くと、それぞれの「周期」はあるのかもしれず、また、生体リズムがはっきりしている女性の方々の重みと、不定愁訴的な男性サイドの辛苦も差異はあると思うものの、12歳の頃にひどい喘息でかなり重篤な状態になり、19歳のときに鬱で伏し、26歳のときにはワーカホリックで、33歳のときに身体の不具合で入院、というのを考えると、7年が自分の変わり目が来るのかもしれない。節制が足りないということでもあるのだろうが。

そして、その後、間違ったのか、間違っていないのか、生きる方向へと何故か歩んだことで道が拓けてもいる。

そんな瞬き程の時間のあいだで、世の中は変わってしまった。

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飛行機に乗る、という行為があまり特異なものではなくなり、でも、乱気流などの理由で1、2時間、空港に辿り着けないときは酔いがひどく、また、機内での揉め事にも巻き込まれた。異国の地での銃声、命の危険というのも何かしらあり、いつかの某場所での洪水のときは或る程度、諦めかけ、ただ、現場でカロリーメイトとミネラル・ウォーターを僅かながら配ってまわった。感染症や衛生よりも、おそらく、自分が死ぬことにそんなに後ろめたさがなかった気がする。

現在進行形のことにしても、日本も何も変わっていないかのように、約2年ほどの歳月が過ぎた。まだ行方不明のままの知己も居るし、根本的にどうなのだろう、ということは尽きない。夏には、昨年、手向けた花の代わりに行かないといけない場所があるが、その両親とも随分と連絡が途絶えている。

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何が「真実」で、どれが「事実」か、といった詮索はしたくない。

真実を暴いても、事実は続く。

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確かに、帰り道を急いだ人はちゃんと家に戻れたのだろうか、時おり考える。そもそも、その家に、家族が待っていなかった、その家は何なのだろうか、杞憂が募っては、自分が追い込まれる。被害妄想も強迫観念でも構わないとして、例えば、地震予知のブザーが鳴るたびに動悸が止まらずに過呼吸になってしまう人たちの声は他人事ではなく、アベノミクスか政権安定かわからないけれど、急速に物事は「梃入れ」されてゆく。

現代の社会上、法や制度が改正されたあと、帰属する人たちは抗う余地がなくなる。

古典のロールズの『正義論』の話ではなく、少なくとも、近代以降でシステム・サステナビリティ(形式的社会制度維持)と個の疎外は連関している。『1984』的に番号管理されてしまっても、被管理されない隙間により澱がたまる。

喪に服している時間のとなりで、多くの事象が並列的に雪崩れてゆく。

こんな梅雨時期の風疹での休講やインフルエンザでの学級閉鎖なんてトピックにも神経が揺れてしまう。