『アルマジロ』

戦争に相義するのは平和なのか、そうではないような気がする。

平和は「状態」であり、戦争は「状況」としたら、現代の戦争は何かしらのエビデンスが残るはずで、そのエビデンスは戦場から届く写真や映像、史実そのものであるとしたら、今、平和の状態維持を繕う上空にどこかの国のミサイルは飛んでいる衛星写真を追尾しているのと、民主化の春を迎えたあとの諸国の混乱状況は決める要件とは何なのか、とも杞憂もする。

アルマジロ』は、国際平和活動(PSO)の下での、アフガニスタンに派兵された若者たちをめぐる7か月に及ぶドキュメンタリーといういかにもな紹介文よりも、「戦争」の内部で起こっている無秩序な葛藤と悲しみ、目的化される敵、耳をつんざく銃声、銃弾、砂埃、一瞬で分かれてしまう生死、それらが俯瞰性がなく、その場にいるような感覚で迫ってくるが、兵士たちのヘルメットにも装着されたカメラ映像から投げ出されるようにブレる箇所から、結果を残さないように振れる編集などもあり、極限状態における、しかし、戦争の内側の規律とは、外側の暗黙の倫理で裁けない不条理を当たり前のように切り取ってゆく。

本編を観ながら、ロッセリーニやスレイマンのことをなぜか、脳裏をよぎっていたのだが、“起こってしまったこと/人がいる”、生起点と存前性の非対称性―ドキュメンタリーにおけるプロセス・インと、作法的なものがこの『アルマジロ』では忠実過ぎるがゆえに、ときに作為的にさえ感じさせてしまうところがあり、「まるでよくできたフィクションを観ているようだった。」と一回り下の若い研究者は言っていたが、フィルム断片に血が残るように、ただ、無邪気な異国の若者たちの笑い声が聞こえるように、戦争という状況がいかにいびつで虚しい所作なのかも併せ示していたのも否めない。構成と映像の連関、リアリティへの帰属を軽減させるような、演出意図も見え、また、画面外=観衆が翻訳をするときの誤差も考える要素が多々あった。

正義と正義がぶつかり、戦争が起こるという二分法は今は成立しないと思うのは分断統治下における上部価値の「正義」は、現場のそれと相反するような気がするからで、タリバン兵を撃ち、明らかにトランス状態にある青年の声と生命倫理への疑義の俎上は全く違う。監督のヤヌス・メッツは“戦争と、そこに駆り出された若者たちという文脈で私が突き詰めたかったのは、男性的な感覚や、善と悪、文明と野蛮さといった要素がいかに行動に反映されるか、いかに"次なる世代"の物語に適用されるか、ということである。”とコメントをしているが、「物語」に適用され得るか、という部分はこの映画そのものの与件と問いかけをしているかのようで、不安や恐怖を煽りたてる一連の装飾に関しては既に毀誉褒貶わかれているが、個人的にも、もっとフラットに観られると、良かったと思う。

アルマジロ 公式HP】
http://www.uplink.co.jp/armadillo/