Apart of CODE

格差」という言葉は得てして不明確だが、使い勝手がよく、メディアのみならず、貧富のみならず、情報、知識、教育の接尾語としても用いられることがあるが、チャールズ・マレーの『Coming Apart:The State Of White America,1960-2010』を読み返していて、“Apart”の部分がより強まること、つまり、もう「格差」という言葉で追いつかない差分、距離感をさえを含意するのかもしれないとも思う。

この書は刊行当初から話題になったが、統計、データを精緻に編み込み、事実や論考を進めてゆく。1960年から2010年のアメリカにおける50年の間の容赦のない変化。例えば、1960年には、30〜49歳のブルーカラー層の84%が結婚していたものの、2010年に48%に低下していたり、学歴差、職業差がもたらす具体的な事例までも取り上げる。また、「ある郵便番号(ジップコード)」はエリート層のコミュニティが確保していること。つまり、誰でも可視化出来るが、近寄れないリアリティが線引かれている。

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自由主義とエクストリームな緩和政策が進められた結果、コードはより暗号化する。そのときには既に遅くなったと嘆いても、城壁は高く築かれており、眺めることができないとしたら、グローバリゼーション以降の言語はもう旧態的になっているとさえいえる。

旧い言語体系の「系」を辿って行ったら、おそらくもっともらしいフロンティア探しが始まるが、今、個人的に「東アジアへの各国の意識が高まっていていいね」、と言われるが、惜しむらく、パイの奪い合いはもはや壮絶なことになっている。来たるべき新興国としてほんの10年前、中国へ進出した企業群を考えれば早いように、現在、インドネシアミャンマー、マレーシア、はてはバングラデシュに新規投資→種蒔き→回収までのサイクルを敷くタイム・コストはどれだけあるのか、疑念も残る。

投資は「時間」と相対する。

時間も投資対象になるからで、これだけの高速度した経済社会における時間は10年ひと昔のそれとは精緻に違う。では、施設、人材、言語、設備、チャネル形成内における時間と外的時間の差異はどうなってくるのか、おそらく、時差が生まれる。その時差分を見越した戦略立てをしてゆく際のマッピングは峻厳な色相を帯びる。予めの“Apart”に準拠したコード(CODE)からの道は一部の対路・退路しか許さないのではないか、そんな杞憂も募る。