アウラは再帰する

周囲では「もうCD買わなくなって久しい。」という声も多いが、「配信で落としても、やっぱり買ってしまう。アナログも楽しい。」という声もあって、後者のそれは奢侈品としてのパッケージ物へのフェティシズム以外に、そのモノをどこかで手間を掛けて買ったことは記憶に残っている、それも大きいようで、存外、今、高速化する社会情勢下で、しなくていいかもしれない「手間」を見つけ出している人が多いというイロニーもある。

電車に乗ったら、何かを食べながら、眼前のスマートフォンをひたすらスクロールしている人が多くなり、駅でも前を見ずにずっとそういうのに集中して、速足で歩いてきてぶつかりかけたりしたり、実際、サラリーマンの方やご高齢の方がぶつかったりする場面も時おり見かける。

京都でも道を聞かれたら、「何が一番、速いですか?」という言葉が先立つことが多く、でも、地下鉄や市バスやときに、徒歩でその場所に行くにしても、そんなにロスはないと思う。例えば、最速でそこに30分で行けるとしても、1時間掛けて、寄り道したりで、景観を楽しめる、それはロスではない気がする。

***

ふと、ベンヤミンアウラという言葉を最近は考える。もはや、語り尽くされている定義だが、『複製技術時代の芸術作品』において、アウラを複製芸術ではなく、オリジナルな作品が持っている「一回きりの」で「不気味な」ものとして捉えている。つまり、複製技術による生産物は、“アウラ”の宿った作品を二次的、三次的模倣しているために、アウラがもうそこには宿ることがない、喪失の観点から近代を認知しようとした訳だが、勘違いとして、オリジナルが素晴らしいという訳ではなく、不思議な現象性とも彼は附箋している点で、それはきっと昨今の「女子会」という響きそのものが存在体の生々しさを表象していたのと反比する。染色体の数を数えるまでもなく、“男性体”は儚い、一回性の現象性を帯びてきている。そこで、オリジナルと複製され続ける時間、現象とはつまり、「そこ」に何かがあるのか、と問いが擡げるが、「ない」ともいえる。

***

今回、GRAPEVINEというキャリアも認知度も十二分にあるバンドがアルバムのリード・シングル「1977」を8cm短冊型の形式でリリースした。周囲では演出がどうとか、アルバムを待とう、とかそんな声がありながらも、ちゃんと買ってCDプレーヤーで聴いている人、それも自分よりも10歳以上、歳が離れている下の子もいたりもする。表題曲「1977」は来たるべきアルバムには入る。ただ、c/wは14分に及ぶ「Core」と「エレウテリア」の秀逸なライヴ・テイクが入っている。意識せずとも、8cmシングル、マキシ・シングル、配信化の趨勢を見てきたが、自分が持っている8cmシングルの束の中の少しをAmazonなどで調べてみると、驚くほどに高価になっていることがある。アーティストの意思でその後、再発もコンパイルされていない、とか、c/wがどこにも収録されていない、メーカー、レーベルの事情、色んなケースがあるのだろうと思う。

この前も知己と中古大型書店でそういったコーナーを彼がチェックしているので、よく聞いたら、このアーティストのこのシングルが時おりこういうところに破格な安さであるケースがあって、と言う。そういえば、自身も京都の今はなくなったレコード・ショップで小沢健二さんの「ある光」という中古シングルを200円ほどで買ったが、そのシングルは何だか、不思議なくらい高価にレアになっている。でも、その「ある光」は今の時代、You Tubeでもなんでも聴くことは出来る。聴くことは出来ても、その音源とパッケージングは手に入れておきたい、そういう背反性は強まってきている感じもする。

先日の村上春樹氏の新刊の騒動にしても、メディアの騒ぎ方よりも、「彼の本は手にしておきたい、手元に置いておきたい」という人たちの母数の大きさに意識が向く。

きっと、数日後には中古本で出回るくらいの部数が発行されているが、要はそういうことなのだと思う。

手に入りにくいものに価値がある、とか、最短距離で手に入るものは無意味だとかの話ではなく、今、きっと、アウラは巡って、多くの人の潜在感性を刺激し直している、そういう感覚が確かに或る。