【REVIEW】SUEDE『Bloodsports』

スウェードが実に約11年半振りとなるオリジナル・アルバム『ブラッドスポーツ』を上梓した。

と聞いても、フロントマンたるブレット・アンダーソンはソロで活発に動き、日本でライヴする際にはスウェードの曲を演奏することに躊躇は惜しまなかった。

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スウェードというバンドは、実に長い変節を伴うバンドがゆえに、少しだけ過去をなぞっていこうと思う。

初期、ボーカルのブレット・アンダーソンと、今や、プロデューサーとしての名前で見るかもしれないギタリストのバーナード・バトラーが醸す、ザ・スミスを経由したデカダンスとか細く折れそうなセンスをブリット・ポップの隅という、今から思えばムーヴメントだったのか、見え難い中で、喝采と揶揄双方で当時のUKで受け入れられた。それは、ブレットとはUKのクラス階級の中で、ワーキング・クラスに属しながらも、マチズモには振り切らないややこしさを自意識で纏い、そこにドラッグ、セックス、ロック、アルコール、文学性を繊細に合わせ入れる場所から表現を始めていたようなところがあり、ゆえに、グラム・ロックニューウェーヴ、不謹慎を促す、そんなイメージが彼らには付き纏っていたからでもある。

8分半に及ぶ1994年のシングル「Stay Together」は特に印象深いもので、今聴いても、胸をうつ要素がある。ブレット、バーナードの二人の意思がぶつかり合いながら、その後のメンバーにもなるベースのマット・オスマン、ドラムのサイモン・ギルバート、プロデューサーのエド・ビューラーが参加した形での極北のギターロック。その歌詞内には、こういったフレーズが行き交う。

《Come to my house tonight, We can be together in the nuclear sky》
(今夜、僕の部屋においでよ "nuclear sky"の下で一緒になれる)

《And she will dance in the poison air,》
(でさ、彼女は汚染された空気の中で踊るんだろう)

バーナードが脱退してからの1996年の『coming up』では、それまでの繊細なギターロックから一気にグリッターにけばけばしさと振り切れたポップネスが取り入れられた。新しく入ったギターのリチャード・オークス、キーボードのニール・コドリングの五人体制になってからの鮮やかな前線復帰。

バンド名は知らなくても、フェスやDJで「Trash」が流れると、異様に場が盛り上がる。高揚と多幸感溢れるサウンドに絡むブレットの背反的なリリック。

《We’re Trash,you and me / We’re the litter on the breeze, / We’re the lovers on the streets, / Just trash,me and you / It’s everything we do(拙訳:僕らはクズで、それは君も僕も 僕らは塵風にさえ散る 僕らは通りを占拠する愛人たち ただ クズなのは僕も君もそう 僕らのすることは全部ね)》
(「Trash」)

ブリット・ポップの趨勢に取り残されるように、「終わった」バンドと言われ、バーナードの脱退があった中でのこの作品では、禍禍しさが渦巻いているが、デコラティヴでもなく、挟まれるメロウな「By The Sea」、なんてことのない一日を歌うバラッド「Saturday Night」により、深みを増させている。フィルム・スターに皮肉を投げかけ、怠惰の中に沈むドラッグ・アディクトする人たち、国営アパートの隅々、際どいフレーズ片が舞いながら、“土曜日の夜”を待ち焦がれた彼女に対しての暖かな視線は、社会的なマイノリティ層への優しさと手を差し伸べるスウェードというバンドの本懐がある。

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閑話休題

なお、敷衍しておくに、今の時代、社会的マイノリティ層というのは実のところ、階級や格差などだけでは可視出来ず、熱心にチョムスキーやサイードがそこに意識を向けていたのも、民主主義の内実が変わってきているからでもある。基本は、民主主義とは「多数決による原理・原則」に準拠し、民意を汲み、そこに法的な根拠および社会的な制度を持ち込んだ。しかし、一時期から民主主義は「痛み」を共有することを上部層が求め出し、同時に、昨今のアラヴの春で見られたように、民衆が自由を手に入れることで、非・自由になってしまう倒錯も出てきており、また、社会的マイノリティ層や少数の民族への民主主義側からの導路の艱難性も地表化した。

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マシン・ビートと無機性、文学性にも翳りが見えた4作目『Head Music』で再び彼らはシーンから見離されかける。このときはブレットのドラッグ・アディクトが副因にはあるようだが、こういった浮き沈みと、しかし、その後も続いてゆくしぶとさも魅力的なのかもしれない。02年『New Morning』、翌年のベスト・アルバム、ライヴ内における解散表明。

その後、ブレットはバーナード・バトラーとザ・ティアーズを結成し、充実したソロ作を重ねていき、精力的にライヴを行なってもいたが、2010年にイベントの一環として『Coming Up』期のメンバーとのロイヤル・アルバート・ホールでスウェードの名前として戻ってくる。その後、スウェードは完全に復活、継続されることになり、日本でも2011年のサマーソニック、2012年のASIAN KUNG-FU GENERATION主宰のNANO MUGEN FES.で来日し、鮮やかなステージ・パフォーマンスを見せていたが、オリジナル作は録音に入ったという報だけで、新曲はライヴのみならず、MV「It Starts And Ends With You」(http://www.youtube.com/watch?v=D54iGj64dis)で公開されはしていた。カムバック作として捉えるならば、十二分に素晴らしいと思う。

同時代性や新しさを求めるのは彼らに対してはないとは察せられ、また、バーナード期の艶やかさと仄暗さ、『Coming Up』の躁性、『New Morning』期のまっすぐな明るさ、までを初期作を手掛けたエド・ビューラーをここで招聘したことで、全体を通じた仄暗さとそれを支える繊細なサウンド・メイクは、最近、ライヴや何かの契機で彼らを知った人やずっと彼らを知っている人でも、想わぬことにもなっていると、言えないでもない。ジャム的に生み出された自由な曲もそうだろうし、ニューウェーヴ調のメロディアスな曲から、空間を活かしたアレンジメントも目立つ。

ジャケットのなにかしらのピーク状態にある恋人のベッド上での絡みも過去のジャケット群からしたら、アートワークもひとつの美学というもので揺るがない。そもそも、ブレットのあの声、紡がれる詩には毀誉褒貶があった訳で、スウェードの最新作として捉える以上の意味はない気もする。

Bloodsports

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