慣性を逸れるために

過去に例がないほど、先日の京都は混んでいた。

駅、バス、地下鉄、食事処、どこにも人だかりができていて、色んな国の方が居て、道を聞いたり、ガイドブックや地図を見たり。僕もあれこれと異国の方に話しかけられたものの、なぜかドイツやイギリスの方が多かった。次に中国の方。誰もが同じような方向で同じような質問をする。

―「ここで桜を観て、ここで食べたいのだけど。」みたく。そういうときは、「そこ」は、名前が頻繁に出るだけで、行かない方がいいですよ、と返すようにしている。内情を聞くと、ずっと京都に来ることを楽しみに、長い時間や手間を掛けてきたような人も多く、わざわざ人に埋もれながら、そこに行かなくていい、という気がして、あまり穴場は教えたくないものの、いくつかの場所をメモで渡したりもした。

同じことに、同じように向かう。それも一つの道だし、記念や想い出は増えるほどに良い気がする。僕も初めて東京タワーにのぼったときは感慨があったし、名店と呼ばれるお店で食事をしたら、やはり、美味しかった。ただ、肥大化して記号的になってゆくイメージもある。ワン・フレーズで何かが言い切られるようなそれらは、きっともう実相はない。だから、その京都の際に思ったのは、今の社会システムなどにも繋がることで、例えば、「法律を変えなければならない」という「MUST」は明らかに異質だと感じる空気感で、「こんな世だからこそ、強く明るく生きなければならない」なども押し出されるべきなのかな、とも思う。

但し書き、注意書き、更には身分制約から個々人のレゾンデートルそのものさえも囲い込むようにシステムは先走ってゆく。人間が考えたとしても、システムが一旦、形成されれば、それはサステインされるための制御に準拠することになり、規則性と慣性に巻かれる。

この4月から物価も上がったり、少しずつ仕組みが変わり、これからも変わってゆくものも、いまだ何も解決していない山積みの現実も多い。3月で終わった懸念、制度や店、人たちはその後、どうなるのか、よくわからないまま、続く。エイプリル・フールで全部、攫われたのだろうか。

今、曖昧に曖昧を重ねる作業をしていると、矢が飛んでくる。すぐ結論を出さないといけないオブセッションはいつかの自分よりも現在の社会要請みたく、でも、結論が決まっているならば、そんなに苦労も要らず、時間は要らない。

その結論らしきぼんやりしたものに向かってゆくこと、「同じことを、同じように言う」のは違うのではないか、それを深く考え、分析するために時間はあり、知識はあるのだとも思う。

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桜をあちこちで観たものの、シンクロニシティ的にどこかで誰かが桜を観ている―それを否応なく感じた日々で、その桜を観ている(もしくは、観る時間も取れない人たち)は共に、今年の桜に何を想ったのだろう、と思ったからで、つまり、桜という同じ自然のものを見ていても、全くそれぞれが違う、感慨や解釈をそこに付している、

そういうものを大事にしたいな、という当たり前を実感している。みんな同じで居られる訳ない、安心を保てていられるほどそれぞれの場所は不安定で、ただ、なにかしらの理由があって生きる。ただひたすらに生きるのではなく、「生活」をする、そんな生活の傍に花鳥風月、音楽、映画、文学、教養、恋愛、そういうものが変わらず寄り添えていたらいいな、という希いをひそかに強めている。