『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』―装置性を翻す一葉

明らかに、この三作辺りでの『ドラえもん』大長編は過去の焼き直しや、いわゆる、新生ドラえもんとしてやや迷走、停滞期にあったところから新機軸、新時代に向けての舵切りを静かに大胆に取っていると思う。

声優の変化以外にも、アニメ的によりデフォルメされ、メディア・ミックス過剰といえた時期、実質、いくら世代を越えるエヴァーグリーンな漫画といえども、スタッフ・サイドは相当、気を揉んでいた気配は察せられた。特に大長編は、05年の大山のぶ代から切り替わってからの『のび太の恐竜2006』というリメイク、オリジナルを挟みながら、様子を伺っている感じもあり、毀誉褒貶は無論、あると思うが、『のび太と鉄人兵団』のリメイク版の2011年は個人的に大きかった気がしている。

***

1時間半サイズの中でカット・アップ、リミックス、高度になった映像美を駆使しながら、演出過剰な部分、テンポの良さを重視するようになったのがときに徒になってもいたが、カット・アップのコマ割りの速さが逆に、最後やクライマックスの一コマを印象深くさせるところがあり、『鉄人兵団』では、死/転生というテーマが巡る主題にも関わらず、湿っぽさがオリジナル作より、なかった。それでも、BUMP OF CHICKEN『友達の唄』が重なるエンディングでは子供より大人がハンカチを目に当てている姿が多かったように、子供はこの今のドラえもんのテンポで感動しながらも、大人はやや過度なテンポながら、一コマの妙、演出、巡るような回顧をエンディングで辿ることで、地続き的シナリオの弛緩から緊張に戻り、本編の始まりに急速に意識を置くことが出来る。

ゆえに、そのテンポ感を活かしたオリジナル・シナリオ、昨年の『のび太と奇跡の島〜アニマル アドベンチャー〜』では基本、ドタバタ劇ながら、(のび太の)「父」と「絆」をメイン・タームに置くことで最後のカタルシスに繋げた。

***

おそらく、2011年3月の東日本大震災以降、『ドラえもん』の大長編は未来世紀を辿るロマンティシズムや相変わらずの”ドラえもん”をマイナーチェンジさせ、特に家族やささやかな繋がりを大切にしている節があり、今回の『のび太のひみつ道具博物館ミュージアム)』では、怪盗やスリル、サスペンス的要素を含みながらも、映像的に現実から逃避できるファンタジックな美しさ、それはそのまま「ひみつ道具博物館そのもの」の内側にも関わってくる訳で、つまり、今回、活躍という意味ではのび太ジャイアンが秀でて目立つ訳ではなく、サブ・キャラクターたちのエピソードも深いところはあるが、ベースはドラえもんの鈴を巡るある裏話で一気にしみじみとマクロ大のファンタジーから一対一のミクロな関係性へと収斂する、そこがとても巧く、もうあの馴染みの土管のある空き地は今の世では「ない」空想の場かもしれなくても、ドラえもんが盗まれた鈴に頑なに拘り続ける理由は時代を越えるものがある。

その理由を探すために、今は敢えて、ドラえもんという大きな装置を使っている気がする。誰もが活躍しなくても、誰もが主役じゃなくても、アニメ的な描写が加速しても、老若男女が付いていける。そして、誰もが脇役でも生きていけるのだと想う。誰かは誰かとどこかでつながりを持ち、記憶、想い出を共有している限り、果てない大きい夢やロマンティシズム、ファンタジーの大木から風で飛ばされた一葉に、現実が合わさるような、そんな想いが募る。

ここにあるすべてにただラブソングを
くちずさむよ
大袈裟な事は歌わないと
そう決めていたいんだよ
この子の未来にただラブソングを
くちずさむよ
ヒトが羨むような普通のラブソングを
馬鹿らしいかい?

(「公園まで」、GRAPEVINE

ドラえもん のび太のひみつ道具博物館 HP】
http://doraeiga.com/2013/