【REVIEW】Manuel Bienvenu『Amanuma』

この時代におけるリアリティとは、どんどんレイヤーが複層的になっているとさえ思う。電車で隣り合わせても、ヘッドフォンやスマートフォン越しに遠い誰かとのコミュニケーションをしているとしたら、その距離的なリアルはヴァーチャル且つ分岐してゆく浮遊を描くのではないか、ということ。

例えば、映画監督たるオリヴィエ・アサイヤスの言葉を借りれば、「現代の真実は複数で多種多様だ。しかもそれが真実であるかを決めるのは主観。だから真実は、街角や地下鉄と同じリアリティをもってインターネットの中にも存在する。」(『デーモンラヴァー』、プレスキットより)。

では、その真実は加工・歪曲されて“キャラ化”するのもひとつの解釈論に近似するのではないかもしれないが、今は「」はそれぞれのTPOに寄り添い、自由という不自由、つまり、スキゾに自己を非自己化するほどに、その「自己」は特定化されてしまうリアリティを寄与する皮肉を産むからだ。誰もが言えることを今は実は誰かは言わないし、言えない。

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この鬼才、マニュエル・ヴィエンヴェニュの作品に付随するキーワードはプレス資料を見ても、フランス人のマルチ・プレイヤーの柔軟な音楽的なバネが活きたというだけには留まらず、一筋縄でいかない。

2004年に初めて日本を訪れてからの断続的な滞在の軌跡。石井マサユキ氏(gabby&lopez,TICA)、エマーソン木村氏、mama!milkhttp://cookiescene.jp/2011/10/mama-milk-nude-wind-bell.php)、坂本慎太郎氏など幅広い日本人のアーティストとの交流から、過去のカンタベリー・シーンのサウンドを思わせるジャジーかつプログレッシヴで何より暖かな捻くれた音像に依拠した何か。歴々たるキャラバン、ハットフィールド・アンド・ザ・ノース、マッチング・モール、先ごろ惜しくも亡くなったケヴィン・エアーズ、そして、ロバート・ワイアットまで繋がる進行形での敬意と挑戦の意思も視える。

もしも、“ソフト・ロック”と称し、そのカテゴリー内で音楽の躍動は閉じ込められてしまうとすれば、この『Amanuma』はジャケットが示すとおり、音そのもので何かを語ろうとするがゆえに、カンタベリーのシカゴ音響派、エレファント6界隈の音も経由し、今、2013年におけるオルタナティヴな多彩なる音楽の遺産を惜しげもなく、折り込み、曲と曲の境目を溶かす。

つまり、1曲だけ聴いても分からない。また、アルバムを通して聴いても1曲なのかもしれない。ライヴでもシームレスみたく、水彩画的に描かれる筆致には、ほんの1時間ほどの時間をリアルに掻き分ける。思えば、トータス『TNT』を聴いたときに感じた、録音/作品物が曖昧になるニュアンス、ポスト・ロックというものがライヴの閃き、とテクニカルな意識で録音に向かうときに浮き出る力学に近似する感覚もある。その力学のレバレッジがくだくだしさもなく、機能するところがマニュエルの複雑への舵取りの正しさを裏付ける。3曲目「bubl」の反復の妙とパーカッシヴながらも、角の矯められたビートに乗る声、そこには、ジム・オルークの『ユリイカ』に近いうたごころも宿っている。続けてのAOR的でもあり、艶めかしい音響の意匠がなされたベン・ワット「North Marine Drive」のカバーに繋がる感触は堪らないものがある。

一音ずつ追いかけてゆくと、リフ、フレーズ、インプロまで彼の拘りが伝わってくるとともに、1曲の背景にどこまで練り込まれた意図があったとしても、そのネタをベタに楽しむこともできるが、もはや、マニュ自身のアンテナが向いた音楽の種子が埋め込まれたそれぞれ楽曲にフォーカスをあてればいいのだと思う。

初期のエールを思わせる、夢心地なエレクトロニクスとボーカル加工されたものから、シモン・ダルメ、と、フランスから近年に芽吹く音楽からの影響もあるが、フランス映画のサウンドトラック的なエレガンスがサンジェルマン・デ・プレ、左岸沿いに咲いているところも特徴かもしれない。聴いていて、水に一つ落とした石によって波紋上に広がる様を想い出せば早く、ギターを耳で追いかけていくだけでも、ベースにピントを合わせても、何ら違和なく、部分は「部分」でも浮かび、そして、全体は危うくも計算された構成で成り立っていることが分かるスリリングさがある。

昔、カンタベリーという場所で芽吹いていた音楽が面白かったのはソフト・ロックのような耳触りの良さを持っていながらも、展開が読めない前衛性を包含していた。今、初めから前衛性をコンセプトに立てて、そこに帰納しようとする音楽も多いが、しっかりと単純で分かりやすいことを迂避するこの作品の矜持は素晴らしいと思う。

予めの切り取り線、カテゴリーを甘やかに融かす、蠱惑が映えた音楽の意味が鳴っている気がする。リアリティはつまり、作られる。こうした形で、音楽のメタ認知の痕跡をなぞりながら、今の中で。

意味しかない退屈。形式しかない卑屈。
その二軸を止揚したような内容だと思う。


amanuma

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