今を模倣し続ける連続性と、何か

昨日は、奈良のジャンゴ・レコードさんという老舗のレコード・ショップの25周年お祝いに僭越ながら、参加させて戴きました。本来は何かとお世話になってきました手前、企画や動きをしたかったのですが、どうにも多忙が重なり、今回、ルルルルズ、SAYOCO-DAISYさんのライヴを契機に、感慨深いものになりました。想えば、過去にライナー的な説明でジャンゴ・レコードさん、京都在住の工藤鴎芽さんというオルタナティヴ・アーティストの方に関して、音楽メディアCOOKIE SCENEにて、こういう文章を書いていました。

【Record Shop Django×工藤鴎芽『Mondo』〜奈良にて】
http://cookiescene.jp/2011/08/record-shop-djangomondo.php

実店舗が買い取り方式で、利益が上げづらくなっている瀬、しかも、パッケージCDというカルチャーが衰微している中、同時に、確実に売れるものしか置きにくくなっております中、ノン・レーベルながら、その音源を聴かれて、当店で扱うというジャッジをして頂いたのはその店長の松田さんで、ベテランで業界の酸いも甘いも掻き分けてきておられるシビアな耳と感覚を持っておられるのは過去から承知ながら、また、工藤鴎芽さんにとりましても、初のコンセプチュアルでインストゥルメンタル主体のミニ・アルバムということで、幅が拡がったようで、その間に立てたことは本当に嬉しかったものでした。

***

当世、太安万侶は増えてきたのですが、当の稗田阿礼が少なくなってゆくな、という気がします。語り継げるもの、知っていたことを繋げること、そうしないと、あっという間に誰も想い出話や懐古主義に暮れるでしょう。

残酷でも、悲愴でも「想い出」はときに甘美で蜜の味です。あの頃に戻れたら、時計の針を戻せたら―そう考える人は少なくないと思います。

小沢健二さんの曲で「時間軸を曲げて」というものがあります。時間「軸」を曲げる、一般相対性理論に付して考えてみられるような概念。強い重力場内での時間の進み、要は「固有された時間」とは、弱い重力場内の“それ”よりも遅くなる訳です。バタイユの連続・非連続というフレームを当てはめてみてもいいかもしれません。そこで彼はこう記します。

少年のように無邪気に嘘を笑えたら
明けの鐘に泣き濡れる時を
時間軸を曲げて

少女のように
爪に炎を灯せたら
宵の野辺に泣き濡れる時も
時間軸を曲げて

少年は無邪気に嘘を笑おうとし、少女は爪に炎を灯し、それぞれ明けの鐘に、宵の野辺に泣き濡れる訳ですが、少年/少女、明けの鐘/宵の野辺、のを越えるために、時間軸を曲げる、そこには自らに負荷されている何かが、加速されるために生じている慣性でしかないのか、その外部にある質量により生じている重力なのか、を区別することができないかもしれず、時間「軸」は越えられず、曲げられます。

***

時間論を紡ぎ出しますと、キリがないのですが、おそらく、私たちは広い世を生きているようで殆ど会えない方々ばかりです。会えても、会えていないような方も居ます。そこで、共通言語を探すときに「音楽」とは、時間「軸」を越える可能性があるということで、ジャンゴ・レコードさんというお店が25年を迎えること―それを他人の事のように想えない人たちが沢山いて、共有される現場がある、続いてゆく過程でシェア出来た何かをそれぞれが嚥下してゆく中で、また、稗田阿礼が増えるのだという気がします。

稗田阿礼が増えれば、太安万侶は寧ろそこまでの母数要らなくなるでしょう。

私にとって、生きるという行為性はつまり、偶然の連鎖に伴います必然と誰かの模倣です。誰かの模倣というのは、オリジナルな人間はあり得ない、何かの唄のように「ナンバーワンにならなくてもいい、オンリーワンでいい」というのは撞着があります。前者が後者がどうではなく、そもそもDNAまで遡及してゆきましても、人間は在るために「在る」、そういう自明をまっとうしているようでそうではないのです。トートロジーみたくなりますが。

今を模倣し続けることで、きっと未来になるような気がします。
改めて佳い一日でした。