よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結ぶ

方丈記』が原文や英訳などで今、注視、再読されていますのは無論、その書かれた背景に依拠します。鴨長明の生きました歳月の間、安元3年(1177年)の大火、治承4年(1180年)の竜巻、福原遷都、養和年間(1181年〜1182年)の飢饉、元暦2年(1185年)の大地震などが起こり、そこに彼自身の筆致、視点でその災害、無常が謳われています。

主と栖と無常を争ふさま―

主たる人と住処を求めた無常とは但し、一般的に用いられます字義とは違います。昨今の断捨離というのも不気味なものでしたが、想い出やモノは消えず、その最小限の単位の住処を求めてゆくのは「悪くない」、そういう考えも出来ます。変化を是とする人たち、悲しみと捉える人たち、どちらも大差はありません。何故ならば、良い変化、悪い変化か、は過ぎてみて分かることで、つまり、今は全て「過去」です。今、「今」を認識しようとした時点で、それは「過去」に格納されます。過去を生きている存在体としての人間が時の無常たる流れに敏感であろうとする行為は寧ろ、未来に拓かれている可能性はあります。

例えば、この時柄、異国の方は日本の桜(SAKURA)というものをとても大切に想い、当の日本人も桜の季節には感慨を寄せ、花見と称し、ハレのようにすぐ傍の日常の喪を礼すように集まります。花は枯れるを孕むから、美しいと言われますが、桜も最たるもので、その短期間で鮮やかに咲いては風で、花弁を散らす、その様を愛でる、無常観から演繹され、すなわち心理の中で終わりと変化を同時に受容するということで、始めていけるのかもしれません。

天災、人災、社会システム的な耐久度が問われるようになってきました今、見えないながらも、鴨長明のように庵を作り始めている人たちも居るのでしょう。それは、家族や友達、知己のためではなく、「私だけのサイズ」としての庵。しかし、その小さい庵には多くの消えはしない想い出や現実が木霊しているのだとも察します。

日本もこのわずかにして永い50年ほどで変化を遂げました。戦争の焼け野原からの復興、目覚ましい経済成長、阪神大震災東日本大震災…たった、100年生きられるかどうかの人間にとっては「自分が生きている間にこれだけのことが。」という向きも諦念や悲観に暮れるのも仕方ないのかもしれず、実際、私が瞼を下ろしている間に無数の傷痕が地図に記されていっていることは情報ではなく、感じます。

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京都。賀茂川と高野川、その合流地点に下鴨神社があり、そこの神職の次男として生まれました鴨長明の見つめました往く河とはゆえに、賀茂川だったのでしょうか。何不自由のない生活、寵愛を受けました幼少期、しかし、18歳の父親の急死から彼の人生は変貌します。やや厭世的でコミュニケイティヴではありませんでした性格も合わさったようですが、その後、30歳での生家から離れての鴨川でのひそやかな一軒家での暮らし、最期のときの“方丈の庵”の粗末さは言うまでもないでしょうか。隠居、世捨て人のように生活を縮小してゆく中で、粛然と世の変化を見つめたこと、喚くでもなく、煽るでもなく、憂うでもなく。

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家を建てる行為、はそこで生きて、根を下ろす、一人の人間にとってはとても、とても大きい行事であり、一生を賭けたものであります。ただ、その家、住処が何らかの形で奪われてしまったとき、帰巣本能に準拠しながらもそこを探し続けるのか、それは正しいと言えますし、間違いだとも言えます。

例えば、私の知り合いで先の震災で家が流され、かろうじて残ったものが数枚の写真だけで、それで京都に移ってきたという方が居ます。彼やその家族は深い「愛郷心」を持ちながらも、その数枚の写真に刻印された記憶、想い出に帰巣しながらも、今は生きてゆくしかない、という変化を京都に求めています。京都だから安心はなく、安心な今は何もありません。生老病死、何かが始まり、意識されたところから既に何か「不安」は付き添います。そこで「あるがまま」と言えるには、そんなに強く居られないのも道理でしょう。

もし夜静かなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。

窓越しに見ます宵月に心を宥められたことは数知れません。どの場所でどんな風に生きていたとしても、何らかの形で「それ」は共有されているから、という錯覚めいた実感があるゆえかもしれません。

たましきの都のうちに棟を並べ、甍を争へる高き賤しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。

34歳、という昔で言えば、十二分に「生きた」年齢を迎え、『方丈記』を読み返すのも悪くない気が致します。