ATOMS FOR PEACE『AMOK』を前に

トム・ヨークというイコン性に準拠せず、色眼鏡なしに聴くならば、そこまで劇的で斬新な作品ではなく、フラットに受容出来る。そもそも、レディオヘッドがやや自家中毒的にエレクトロニクスとポリリズミックにグルーヴの折衷を高めていったのに比すると、自由度が高いが、元々、トムの箱庭的なソロ作『Eraser』を演奏で再現するために生まれたバンドであり、集ったメンバー、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、ナイジェル・ゴドリッチ、ジョーイ・ワロンカー、マウロ・レフォスコというビッグ・ネームと敏腕プレイヤーが揃っていただけに、また、ATOMS FOR PEACEという現代においてはあまりに示唆深いネームを付してしまっただけに、過剰期待が付き纏っていたきらいもあった。

2010年のフジロックで観たパフォーマンスは素晴らしくはあったが、万人に拓かれた何かというよりも、インプロヴィゼーションの行間に意味を見出せる要素は強く感じた。並行して、今作を巡ってはまどろっこしいアナウンスメントと突然の曲のリリースは戦略的に見るよりも、行為性そのものを楽しんでいることは明らかなのも伺えた。

この『AMOK』は短期間の濃密なセッションで詰められたサウンドの後にトムとナイジェル・ゴドリッチの徹底的な音響工作、二次精製が為されているのもあり、おそらく多くの人が想定をしている音像も越えてこないところもあるのは否めない。エレクトロニクスと刻まれるビートがファットで情報量が多く、リズムも複雑性はあるものの、昨今のレディオヘッドに見られるような”それ”ではなく、まだシンプルに聴覚を刺激し、分かりやすく嚥下できる。無論、例のトムの声が亡霊のように行き交い、リリックはやや明るさと直截性を帯び、反復と差異があり、9曲そのものをシームレスに感じることが出来る。

もはや、ポスト・ダブステップ、ブローステップなど、また、まだ名称化され得ない新しい強度を持ったビート・ミュージックが既に呈示されているきている瀬では、旧態性もやはり少し感じる。メディア嫌いの彼自身が珍しく饒舌に多くの媒体の取材を受けては、上機嫌に「楽しんでくれたらいい。」と強調しており、付加説明はあまりしていないのもつまりは、革新性やそういう類いとは違う文脈も忖度出来る。ゆえに、生音とコンピューターの端境における止揚を目指したという旨が添えられているのも然もありなんだと思う。

なお、今作には、「ディスコ」というキーワードも付されている。周知のように、「ディスコ」とは1970年代に確立され、ダンス・ミュージックのオリジンをなぞるが、ベースはファンク、ソウル、R&B、とスイングできる音がスピンされていた。パラダイス・ガレージ、フラミンゴ、ギャラリー。社会的立場におけるマイノリティ層のための、ささやかな夜を明かす連帯と優しさへの導線。昨今の規制が強まる世界中のクラヴ・カルチャーを横に、トムが「ディスコ」という概念を持ち出しているのは興味深くもあり、ただ、今作はクラウドに対して一体性への訴求ではなく、個々のバラバラに備わっている不規則なリズムに仮託(マップ)しているところも「らしく」はある。

既にラジオで流れている痙攣的な電子音の中で、シンプルなリズムの反復を重ねる4曲目の「Dropped」、先行曲の「Judge,July And Executioner」辺りを基調に、バンド的なサウンド、身体性よりも、スタジオ・ワークで編み込まれた幾つもの要素が浮揚しては消失する。クラウトロックから本来的なテクノ・ミュージック、IDM、トム自身が常に目配せをしてきた音の断片がある種のノスタルジアとともに、表象されているともいえる。

ヘッド・ミュージックとして細部を味わえる内容にはなっているが、今作そのものに過大な意味付けは無用だとも思う。
詳細なレビューはまた別次にして。

Amok

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