教養のしなやかさ

気が付いたら、2月になっていました。

年末年始が雪崩れるように過ぎてゆき、考える出来事が山積し、世界情勢のうねりに埋もれ、どうしたものか、という中で自身の体調不良も重なり、長い1月だったな、と想いますが、山茶花を観たり、冬の青空越しに飛行機雲が線を引いたり、サジタリアスを久し振りに聴いたらグッときてしまったり、要は毎日は全く同じようで違う、その繰り返しで、年齢を重ねますと、「1日1日があっという間だよ」、と言われていましたが、感覚論と慣性の問題かもしれず、自身はとても1日そのものが密度が濃くなっています。

先日は書店員の方と少しある企画のことでお茶をしていたのですが、彼は「今の時代に教養って生きやすくなる武器だと思うんですよね。」という言葉が心を巡り、「確かにそうかもしれないな。」と感じました。ポストモダン以降、知は或る意味、ツールであり、ときにファッションでもあったのかもしれませんが、今、知らないことが恐いという情報不安神経症ではなく、基礎から体系立てられ、抽象的にしっかり思考できる力を持つほどに難渋に錯綜する瀬で呼吸し易くなる、そんな捻じれは起こってきているのかもしれないとも思います。

勉強は勉めて強いる、強いられるものであるならば、学問、学を問い、教養、教えを養成する所作には経済的与件以外にも時間投資がされて、そこが何らかの回収されるサイクルが産まれたら、きっと大学の学部のときの殆ど面白くない講義、卒業してから感じる「もっと色々と学んでおけばよかった。」という韜晦は解消されるのではないか、と想いますし、断捨離として要らない知識は観念性を浸食してしまい、ときに記憶資源の攪拌も起こしますからいいケースもあるとしても、「知っていること」、「知ってゆくこと」でリアリティは静かに身体性を帯びる気がしています。

戦時下で知性を鍛えるための導路、試みをこれから考えていこうと思っています。

「教養」とは何か (講談社現代新書)

「教養」とは何か (講談社現代新書)