【REVIEW】コンボピアノ-1+ヘアースタイリスティックス

まず何よりも、中原昌也の手掛けたアルバム・ジャケットが良い。ザ・ザの一時期のアルバム・アートを担っていたアンディー・ドッグ・ジョンソンのような色遣いの鮮やかさとディプレッシヴな雰囲気が収められている。しかし、内容の方はというと、最初に聴いたとき、認識ある過失に溢れていた頃の菊地成孔クインテット・ライヴ・ダヴのようだな、と思った。勿論、決して音楽のフォーマットが、という訳ではなく、アティチュードがそれに近い気がしたのだ。当該のライヴを04年の大阪のタワーレコードのインストアの狭い空間で”感じた”とき、非常にオブセッシヴなパードン木村による現場即興のダヴ処理に個人的に中ってしまい、菊地氏本人と「どうにも、不安神経症が治らなくて。」「ははは、何とかなるよ。」なんてフランクな会話をふとしてしまったのを想い出す。

その菊地氏と03年の『10minutes Older』のイメージ・アルバムで共演していたCOMBOPIANOこと渡邊琢磨が00年代後半に見せた渾沌とした疾走は鮮やかだった。彼特有のエレガンスが好きだった人も数知れず居ただろうが、僕自身は”誰でもパスティーシュできるフルクサス”よりも、一回性の現場に賭けたという文脈越しに好感が持つ事ができたし、ロック・フェスでも乱暴に鍵盤を叩く彼の姿にも魅力を感じた。そんな彼が中原昌也の00年代の音楽活動のメイン・ネームであるヘアー・スタイリスティックスと邂逅するというのは、必然的な帰結だったのかもしれないが、こうして、ライヴ音源集として聴く分には鬼才同士がぶつかり合ったマッドでトゥーマッチな音楽という印象はなく、至って素面で、コミカルな音楽にさえ聴こえるというのが不思議だ。

ちなみに、ここでのCOMBOPIANOは08年からの内橋和久、千住宗臣の三人体制のスタイルではなく、-1名義であり、内橋和久のギターが聞こえず、その代わりと言っては何だが、中原昌也の傍若無人なボーカリゼーション、縦横無尽なノイズ、エレクトロニクス、エフェクト加工があり、それが相互・相乗的に加算されたケミストリーを産むというよりは、寧ろ整頓された割れた音像を作り上げているという意味で、渡邊琢磨と中原昌也それぞれの欠けているものを、埋め合わせようとしていないのが面白い。

音像を築き上げるというよりも、なくなるべき音を作るという無為性がここにはパッケージングされており、ゆえに、渡邊琢磨のピアノの性急で強迫不安神経症なタッチも、千住宗臣の緩急巧みなドラミングも、中原昌也のアヴァン・ギャルドな精神性も均質に、ポップの地平に拓かれている。それは例えば、音楽学者にしてロック・ミューシャンであった故・大里俊晴の指摘していた通り、ポストモダン的特徴なるものが決して、芸術音楽の文脈で言う、アヴァン・ギャルドの死とか、前と同じことをしてはいけないという強迫観念などといった理解が「あった」というのが迷妄であり、本作におけるガーション・キングスレイのモダン・クラシック「Popcorn」の痛快なカバーを経て、ホンキートンク調の「Mysterious Monster」内で様々な重力から解き放たれたかのようなジョニー・ロットンを思わせる不遜な中原昌也の笑い声が虚無的な残響を帯びたまま、聴き手に預けられるとき、アヴァン・ギャルドが試みた数々の実験が、ポップに回収されるという瞬間に立ち会えることだろう。

コンボピアノ-1+ヘアースタイリスティックス

コンボピアノ-1+ヘアースタイリスティックス