慣れない遍く夜のために

夜の香りはクラブ・カルチャーもそうだが、パブのような場所での無名に近い演歌歌手やジャズ・シンガーのショーがセットされており、酔客たちの喧噪やカラオケに掻き消されることもある。日本中の、世界中の、夜の場末で消えた「Fly Me To The Moon」はどれだけあるのだろう。その曲が労働のあとの疲れをほぐしていたのか、歌い手たちの心情をどのように駆り立てていたのか、気化さえしてしまう。

今は「知っている」とは、より「無知に近く」なるのは、表層の情報をサーフするほどに経験とのトレードオフが表出するからでもある。当たり前の「人間に優しくしましょう」、「社会に貢献しましょう」という標語にも裏表があり、それは「前提で言わない約束だよね。」という中で積み重ねられていき、基礎たる行動要件は規約にも書かれず、曖昧なセンスの中で攪拌されてしまう。人間に無限の命の価値があるのならば、何故に、企業、政府などがマーケット・コントロールして、時おりは費用便益の明細を「争い」で補填しようとするのか、それは万遍なく夜は誰にも与えられるが、その夜は誰にも平等な夜では「ないことがある」という訳で、では、それぞれの想定する「価値」とは想像の中での社会的制約に由来する。成熟化した社会では、生きるための生活よりも生活から生きる模索が出来るが、そうではない社会内ではまず生きる必要十分条件さえままなっておらず、椅子取りゲームが極まる。

ジャカルタで食べたナシゴレンは200円ほどだった。もっと安く食べられるところもある。日本人からしたら「200円、安いけど、衛生状況や何かと考えると…」みたいな話にいくのかもしれないし、単純に物価価値の話になるのかもしれない。でも、僕自身は十二分に付随価値として、例えば、日本のレストランでせわしく食べるランチ・セットよりも「価値」を感じていたならば、その諸差異はどう説明できるか、というと、主観内的価値によるとしか言いようがない。

主観はその人の感じ方だが、市場社会では金銭や物的価値を通じて、主観と主観を摺り合わせられる空き地は出来るが、客観性が混同されてしまうために、同時に、価格と対効果みたいなものがあるために、拗れてしまう。

話を戻すと、今の1,000円札はもう1,000円札じゃないとエコノミストが言う。物価水準、色んな指標を引き合いにして。でも、その在る1,000円札は1,000円札以外の何物でもなく、それを巡って犯罪も揉め事も起きる。お金が悪いのではなく、絶対性らしき何かという盲目が帯びている場合、相対性としての尺度は実は主観内的価値に固定されてしまう。そこの調整をするのが知識だったのか、というと、どうも「情報」に切り替わってしまってもいる。

今、懐かしむことに価値が発生するのは情報ではなく、経験はどんな物事よりも価値を生むという証左であり、30代でも過去を懐かしみ、記憶の聖域を肴に酔う。

八代亜紀の『夜のアルバム』は元ピチカート・ファイヴ小西康晴を招いたメロウなジャズ・アルバムであり、スタンダード中のスタンダードが並んでいる。原点回帰としてナイトクラブに、いつかの銀座に帰ろうとした成功者の遊びと捉えるには、悲しみと切なさに満ち、それは仕事が終わって明日を考えたくない人たちが聞く、いつの時代も変わらないパブでの気怠さと近接する。その空気感を「知らない」と言えるほど、無知ではなくなってゆくのが年を重ねることなのだとも思う。

夜のアルバム

夜のアルバム