isn't it happiness ?

「幸福度」という指標を考えるたび、相対的尺度と客観出来る目と主観的に内在されてゆく絶対性を感じます。おそらく、なにもない社会でなにかを手にすることもそうですが、高度マテリアリズムが極まった今の日本でサーフする楽しみを幸福に置き換えられている人は大多数居ますし、その享受を得ている自分のような人間は断捨離とは無縁の、より積み上がってゆく知的産物に埋もれた生活をおくっています。きっと大きい地震が来たら、本からCDに埋もれてしまうのだろうな、そんなことを思うくらい、でも、端末にカンファタブルに「全部」があっても、それは「一部」で、一部の全部はやはり実物のアウラが持っていると感じます。

500円あれば、そこそこ、お腹を膨らませることは出来ます。また、500円あれば、レンタルショップで幾枚かCDやDVDも借りられるかもしれないですし、漫画の一冊も買えるかもしれないとは思うものの、何故か雑誌を買ってしまって、その雑誌の一記事がとても胸打つものだったら、十二分に自分は満足という人間なので、費用対効果の「対効果」には鈍感なのか、敏感なのかは分かりません。

アジアで、日本円で1万円出して食べる現地の高級料理もいいのですが、屋台で食べるフォーなんて食べながら、色んな人と話していると、十二分にその時間は「価値」があると思いますし、確かに、お金がありきの話で現代は進んでゆくにしても、総て「功利」に傾がせてしまいますと、ブレーキでいう遊びがなくなっていき、システマティックになってゆきます。

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食事会をしていて2時間を過ぎたら、後にお客がいなくても、「規定ですから。」の規定とは何なのか、と突き詰めてゆくと結果、システム、体系内での労働のエラーの許されなさがオート制御されている、ということになるといいますか。60秒でハンバーガーが出てこないと駄目なのか、そんなに急がないと電車は待ってくれないのか、この「速度」は異常じゃないか、と思うときもなきにしもあらず、久しぶりに歩いた通りが見事にチェーン系の店、カラオケ、パチンコ、ラーメン辺りの店に様変わりしていて、「ここには何があったのかな。」と思ったら、「伊丹十三のエッセイ集を買った古書店だった。」なんて想い返したりしますと、あの味のある知的な店主は何処にいったのだろうという気持ちがはやります。今は、扉越しに高校生らしき集団がカラオケを待っている光景が拡がっていて、秒単位で自分の記憶は掻き消されてしまう怖さもおぼえます。

また、ベトナムインドネシアに行って、現地の中間層の方々と話していますと、「これから欲しいものが色々あるんだ、TVに車…」という同工異曲の返事が多いのですが、それは経済成長と心理的富裕がリンクしている趨勢だからでしょうし、日本は技術立国的なポジション、先進的に経済の幅を広げてゆく時代を後景に、これから対峙する老化する未来での幸福度はおそらく、ミニマム/マクロ大に極端に別れるのではないか、という気がします。ミニマムは、自分、自分の配偶者、子供がいるなら、そこまでのレベルまでの認知。マクロ大で、自己から乖離した大文字の不条理性に貫かれる段階を飛ばした自己承認欲求の挫き。

何かを捨てるのは簡単ですが、しぶとく続ける、忘れないことは難しいものです。
そして、過ぎた後に幸せは見えるのかもしれません。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

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