日なたの窓、複数主体

2013年。何故か、地続きのまま難題を持ち越したまま、ルカーチハーバーマスなどを読んでいました。公共圏の再構築の問題に準拠する訳ですが、労働・生産パラダイムから相互互換のパラダイムの狭間で、複数の主体と聞き手の関係性について詰めながら、経済的案件を抱えていたと言えば早いでしょうか。そのときには、何故かスピッツの初期作が頭の中を巡っていました。

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彼らがメジャー・デビューした1991年、510組居たというバンドの中での生き残り組に当たるのかもしれませんが、何故か今でも危うさと不安定な儚さが残る印象、それはアート・スクール系特有の線の細く、ふてぶてしく今を生きる無為を貫いた結果の産物かもしれませんが、エロスとタナトスに引き裂かれ続けたスピッツは分かりやすくオルタナティヴで、外れ者であり、それでいて、ビートニクスの破片だけを頼りに舵を切っていったのかもしれません。初期三部作、『スピッツ』、『名前をつけてやる』、『惑星のかけら』という90年代前半の少し浮つきがちな巷間の空気感と合わなかった世界観が既に、飢餓の方法とでも言えます表現そのものへの餓えを感じます。

〈何かが解かっても何も変わらない 立ったまま心はしゃがみこんで泣いていた
ふんづけられて また起きて道ばたの花 ずっと見つめていたよ〉

(「たんぽぽ」)

〈値札のついたこころ 枠からハミ出せない 星占いで全てかたづけたい 知らない間に僕も悪者になってた 優しい言葉だけじゃ物足りない〉

(「うめぼし」)

道ばたの花、悪者になっていたところから始めること、そして、名前をつけて「やる」という獰猛な捨て鉢さと、無産的な幻想で揺蕩い続けて、耽溺しては目を醒まし、もう、君のアパートはなく、青い季節が過ぎてしまい、日なたの窓に憧れ続ける切なさ。

功利と実益のみが人間をドライヴするとしたら、いや、そうだからこそ、これだけの社会形成が出来て、そのテクノロジーに悩まされる現代の軌跡とは、勝者の歴史だったのか、と言えば、違うと思います。勝者や権力者や装置化され、寧ろ「裸の王様」になってゆく、そういった瀬で、装置としての勝者や権力者が動かせる何かなど実はありはせず、そこに富裕条件や経済的与件、パワーポリティクスを絡めるのは別位相になり、では、そこでの公とは何なのか、という冒頭への還流へと至り、「理性は、はじめからコミュニケーション的行為の関連および生活世界の構造のなかに肉体化した理性である」という事項を掠めます。生活世界の構造に肉体化した理性はきっと、そんなに有意なものばかりではないと思うことが増えて、だから、それについて模索する一年になると思います。

日なたの窓に憧れてたんだ 哀しい恋のうたに揺られて 落書きだらけの夢を見るのさ 風のノイズで削られてゆくよ〉
(「日なたの窓に憧れて」)

行為システムによって行為者主体が消えないように。