モダン以降、で

まず、確認事項として「モダン」って言うのは、19世紀半ばから20世紀初頭にかけての汎的に「モダニズム」と呼ばれる運動体とリンクしています。

文学畑のヴォードレール、ジョイス、建築畑ではウィーン分離派バウハウスアドルフ・ロースル・コルビュジエ、美術では印象派からキュビズムなど、音楽でいいますと、クラシック音楽の12音技法とか、要は世紀末に起こった近代藝術のあらゆる分野で起こった一潮流な訳で御座いますが、ここで余談ですが、大学の小論文試験で「モダニズムポストモダンの比較対象、説明、断線の説明をして下さい。」という事はもう一生ものの偉業で御座いますので無理です、という一言加えて、教授に差し出しましょう。

「これ」は、あらゆる側面からの解析とプレ・モダンとポスト・ポストモダンを見越した上での考察が今や必要になっているからで、念仏のように古い教科書を持ち出してきて、大きな物語の終焉を経て細部へと神は分かれていった、とか、人間理解の基礎的な枠組みとしての主体性の脱構築し、個をプラットホームとし、進歩を前提としていく、とか、二元論からの脱却、主体の脱中心性への希求、機能主義へのアンチテーゼ、ポスト・セリエリスムなど暗記して、そのままトレースしても、そんなポストモダンにも脱構築は迫られている事は哲学者でも藝術者でも学者でもなく、一般に生きていたら「体感」出来えるものでしょう。

無論、歴史修整主義の浅愚さは見るに堪えないですが、これ見よがしに化石的な論議をする事に、私は何ら意味を見出す事は出来ません。ニュー・ニューレフトも、ネオリベもいいのですが、二項対立図式に結局「収まってしまう」が故に、私からしたら「モダン/ポストモダン」の不毛さを語るぐらい、辟易している訳です。大きい物語は終わっているかもしれないけれど、細部にも神は宿らない時代な訳で、細部にもし光が宿ってもそれは反転してマクロ大の大きい物語に繋がるって事も、理屈で「理屈で片付けられないこと」を表象しようとすればするほど、「理屈しか、理屈で片付けられない事に向き合えない事」は「神の見えざる手」を時々、市場原理で見る私からしても納得裡のゆくものでもあります。

話が逸れました。

ポスト・セリエリスムに関してです。ポスト・セリエルってのは、まず、本流(セリエル)の音価をや強弱、アタックに数的操作が行われ、16音符を1として、みたい音響パターンの一様化は引継ぎつつも、音群作法、クラスター、ミクロポリフォニーなどの様々な要素を導入しました。なので、セリエルの構成法を「用いながら」、自由的に音響多様性を確保せしめようとする、なんてのはザラにありました。

1960年代後半辺りまでのユーロではこの様式が大半を占めていましたが、亜流と正統との境界の狭間で、この音楽構成方法論も方や、ミニマリズムや偶然性、エクスペリエンス音楽にまた撃たれていくのは自明の理な訳ですが、無秩序を撃つのは実は畏まった秩序ではなく、実験性の高い曖昧な秩序なのです。

ま、とはいえ、このポスト・セリエリスムの代表的な音楽家にはヤニス・クセナキス、ペンデレツキ、ハインツ・ホリガールチアーノ・ベリオなど錚々たる面子が居た訳で、そのお歴々の残した軌跡や遺産は、もうCDショップに行かなくても、you tubeを見ればゴロゴロしております。ポスト-は「細部への降下」というのは安直な矢印にしても、その細部はどういったディティールを逆示唆するのか、を鑑みるだけでも歴史は「繰り返しているようで、繰り返さない」ことが理解るのではないでしょうか。