深い河

19歳の時に、インドに行きたかったのです。

でも、お金とか体調とか色々融通がきかなくて、流れたのですが、それはその時に遠藤周作の『深い河』の持つ世界観に魅せられていたような、若き青い凡庸な希求でした。宗教やキリスト教がどう、などなくても登場人物各自が「救い」もしくは「清算」を求めてインドの路程で、そして、ガンジスで気付く、という話―。キリスト教のモットーの「唯一神論」と日本の「汎神論」の折衷の中で、「人間がどうあるべきなのか」、が丁寧な筆致で描かれていて、代表作とされます『海と毒薬』よりも彼の作品では一番好きかもしれません。

癌で亡くした妻の最期の言葉が自分は輪廻転生、必ず生まれ変わるから見つけてほしい。」と言われた老年の男の妻への冷ややかで熱い愛慕の念。「他人を心から愛した事のない」女性が、様様な男性の心を弄びながら、その中の一人に神父を目指す愚直な男が居て、今はインドの修道院にいること。童話作家の中年の男性は、結核を患い、その病院に連れてきていた唯一心許せる九官鳥を手術中の煩事に餌をあげ忘れ、亡くしてしまう。しかし、手術中、自分は一度心肺停止状態にあったのだと聞かされ、九官鳥が代わりになってくれたのだと思い、インドで九官鳥を一羽買い、野生保護区に帰してやることで、償いを、と考えること。戦時中の陰惨な事柄とその後の生き延びたある戦友の懊悩を弔うために、仏教の発祥たるインドへ行こうとする老人。クリスチャンとしての重みを模索しながらも、ガンジス河で「生」の最終地を求めて集まってきながらも、貧しいため葬ってもらえなかった人達の死体を運び、火葬して、ガンジス河に流す仕事をする男。様様な人達がカルマを抱えて、インドという場所に、想いを別々に集まるというナラティヴの交錯。

ガンジスは宗教、民族、貧富差関係なく遍く人達の死を、痛みを、飲み込んでくれる、といいます。仏教精神が近代化の煽りでも「まだ有効」なのは、人の命、生死を平等的にジャッジメントするという所業に拠るのかもしれなく、訪れたらば、カレーは美味しく人の坩堝に飲みこまれ、今はどんどん都市整備もされています。

それでもしかし、教育環境、のみならず、シンプルな道から外れた際のセーフティーネットも張られていない、というのは根深く、無論、カースト制にも依拠する部分が多いです。「ぬるま湯」で生きているつもりもないのですが、思い知るのは世界の広さ、というよりも、経済的与件が多くの面で連関しているという証左。今や、「対岸の火事」などなく、対岸の火事もこちら側の岸に火が移ってくるかもしれません。深い河の水面を撥ねて。

深い河

深い河