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ゆきては、ネットで「言論の自由」はより確約されたというのは逆でもあり、これだけ幅広く整備化されたことで、クラウドという言葉が指し示す通り、そこまで詳しくなき人たちでも、誰かの逝去では個々が異口同音に性急に呟き、R.I.Pの共犯性を要求せしめて、華めくTLは感想か、体制側から仕掛けられたブービートラップか、という具合にも陥ります。

OUTPUTが増え過ぎた訳では決してなく、INPUTの規定量がおかしくなってきているのが現代の強み/脆弱性でもあって、その浸透圧バランスも鑑みずに、表面張力を頼って水を注いでも、コップには皹が入っていたりもします。コップは「キャパシティ」じゃなく、「感性」と再定義してみた際、感応性がヴァルネラブルな方こそ、「ネット・アディクト」し易く、リアリティ乖離し易い気配は出てきます。そして、ヴァーチャル/リアリティの間でキャラ化を進めるなど、は笑えない話でもありながら、マッドな状態でアドレナリンが出る情報過多の体質を指先沿いにキーボードの上に乗せて、「すれ違う」のが決まりなのかもしれません。

ドレス・コーズならぬ、「ネット言語コーズ」が堅固にあって、何か言う時は、背景に「何かを言うのだろうな、と注目してくれている。」という錯覚的な視えない目を自分の中に内在化させた上で、発信するのは自覚裡ではなくとも、表出します。だから、どうしても、ABC−ANIMAL、BEAUTY、CHILDRENの類の無難なラングが形式化する可能性は高く、「否定」から始まる批評、「賛美」ありきの評論の位相を対象化して、もう少し「複雑」になってみるのはどうなのか、とは時おりよぎります。

個人の普遍性に興味が無くなったあまたの層が、普遍的で“しかない”クラウドという個の集合体をサンプリングしようとして、それは、本当にクルーエルなインテリの所作で、ミームで暴けたシステム分、帰着点だけは鮮やかにアフォーダンスを出来ればいいのですが、その余地さえ許せられない、タイム・ボムのような時代の要請も瑕疵だとしたら、予め駆り取られている気分は冒頭に還るのでしょうか