勝手にしやがれ―À bout de souffle

今や有名な、1959年のゴダール初長編『勝手にしやがれ』ですが、主演は、ジャン・ポール・ベルモンドで、奔放なチンピラ役で、自動車泥棒を生業としています。そして、彼女を求めての、パリへの道中で警官に追いかけられ、あっさりと警官を一人殺してしまい、その後、パリで恋人のNY娘と再会したものの、彼女がその愛を確かめる為、密告し、警官に終われ彼は射殺されてしまう-という筋としては他愛のないものです。

そして、そのNY娘の役が『悲しみよこんにちは』でお馴染みの、ジーン・セバーグです。ショートカットの凛としたスタイリッシュで知的で空虚な女子大生を演じています。

この映画が今でも語り継がれるというのは、「ジャンプカット」という手法を最初に用いたという点だけではなく、そのベルモンドとジーン・セバーグのアドリブ的でポエティックな(そもそも、ゴダールほどアフォリズムやポエトリーと親和性の高い監督も居ませんし、彼も自覚裡にそういったフレーズを切ってきます。)会話の妙、50年代の活き活きとしたパリの風景のカットアップや、ハイファッションとも捉えかねないそのスマートでどこか茫漠とした雰囲気や若者の刹那的な生き様をパッケージしたところにありますし、「それ以外」にこの映画を評価する点は「ヌーヴェル・ヴァーグ」という風潮と結びつけるだけしかないような気がします。

ヌーヴェル・ヴァーグ」とは広義では、トリュフォーやシャブロル、ロメールなど若い監督達による、ロケ撮影をベースとした、同時録音、即興的な演出などの手法一貫性のある一連の作家・作品を指しますし、もう人によっては1950年代末から1960年代の半ばにかけて制作された若い作家の作品を指すだけという場合もあります。

ただ、私自身としては映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者アンドレ・バザン経由のカイエ派(もしくは右岸派)とアラン・レネ、ヴァルダ、ドゥミとかのドキュメンタリー主体の左岸派との総称という意味合いがピンときます。そんなヌーヴェル・ヴァーグでの代表作がこの『勝手にしやがれ』と言われています。

フィルム・ノワールの出来損ない的な何か、ベッド上での取るに足りない二人の会話、「まったく最低だ。」と言い放ってニヒルに死ぬベルモンドを一瞥しての、ジーン・セバーグの顔のアップで終わるラスト、といった細部、部分をピックしますと、この映画はあくまでB級の域かもしれません。でも、細部が連なり、全体性を誘起し、全体性が逆に部分性を還流させるという意味では、突然のシーン・チェンジも他愛のないシーンも会話も間延びする直前で切り替えられるカメラワークも全部、「ストーリー」であり、一つのアートなのだと思えてもきます。

ジ・エンドに向かって、始まっていく映画ばかりか、オープニングに向けて終わっていく映画が多い中で、この映画はどこまでも宙ぶらりんで刹那的で、至って「不健康に、空っぽで何も背負おうともしない」青い衝動とリリシズムがあって、私はそこに今も胸を打たれることがあります。ちなみに、退屈に陥りそうならば、ベルモンドの煙草の吸い方が、とか、セバーグのサングラスは洒脱だとか、細かい点も楽しめるのも粋です。

勝手にしやがれ [DVD]

勝手にしやがれ [DVD]