コノテーションを越えて

今年は、多くの表現者や知識人の方と奇遇にも(このご時世、奇遇という言葉自体は苦手ですが、出会いの幅は狭くなったようで溝はより深まっている気がするからです。)繋がりを持つことができました。そこで、より自分の思考を潜らせることも増え、現状に対しての認識鋭度も高まった気がします。

昔からの長い付き合いの知己は慰労や余りある言葉を投げかけてくれたり、また、複雑にして巨大なブラックホールのような世の中のシステムに生傷ごと持っていかれそうになったり、尽きない想いがあります。

会者定離、逢うは別れの始まり、庵に、象牙の塔にこもっていれば、辛苦を味わることなく、済んだのかもしれないと思うことも数え切れません。

音楽や教養や文化―そういったものへの測位試算をポイエーシス、テクニークへの視座法の転換がこの2年ほどの自身に課した課題でした。私は体系化やシステムが苦手で、それは過程や細部でさえ、模態されてしまうからでもあります。模態された過程や細部はおそらく、編集済みの体系にスポイルされたまま、注釈めいた記号が付され消えてしまうのかもしれず、その消えてしまう記号群をどう翻訳し直すか、考えていました。

ブリコルール(bricoleur)に沿えば、いや、沿うまでもなく、目の前には「既にあるもの」に溢れています。そこに知的アルゴリズムを働かせることが出来れば、真新しく視界を変え得る可能性を含むトリガーを付与出来るのではないか、という意味をメタ認知した上で、栽培されない思考について、思考「して」、呼吸するように言葉に変換してきたゆえに、その呼吸法に対しては馴染まない色が地表化してきたのは止むを得ないとも思います。

極力、エネルギー、原発、震災、金融恐慌、TPP、政治、紛争などの問題に言及しないできているのは黒と白に分かたれてしまったときに本質論として「私」はなくなるからです。「私」としての黒を掲げれば、「私」としての白を掲げれば、それはいずれ、体系化されてしまいます。体系化/コード分解という、もしもの二項図式があるとしたら、後者に賭けてきました。コード分解していけば、反/脱/正/負/非のコノテーションを示せるのではないか、という含み。

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もし今の私を見れたなら
あなたはどう思うのでしょう
あなたなしで生きている私を
(「桜流し」、宇多田ヒカル

例えば、「あなた」はなんでも置き換えることは出来るかもしれません。恋人、家族、諦念、未来…それでも、今に「私」がある訳で、「今の私」から演繹されるべきは未来でも過去でもなく、ただ、過ぎてゆく今です。精緻に言えば、今はありません。視界を通じて得られる今とはあらゆる集積体として既に在ったものです。同じ場所で同じ感覚で太陽を見上げても、8分前の太陽であるように、待ち合わせの場所でのその人を見つけたとき、それも0.00000…1秒前の知覚です。そんな速度の間合いを噛みしめるための、歩みはとてもなだらかに、切実にもなります。

先日、大阪での丁度、コンサート前後の時間帯、東北、東京で大きい地震がありました。その後に追尾した多くの方の感情の流れはとても、悲痛ともいえる痛みを帯びたもので、それは耐性が取れてきているということでもあるのかもしれません。ずっと「耐えてきた感情」に、過去の記憶や景色が重なるとき、実相は強い、オブセッシヴな不安を招きます。適度な不安は生きる糧になりますが、一度、経験、体験している大きな不安は実存を揺さぶります。

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過度の大文字や悲観論が覆う瀬に、悩んでは花を投げ、その花が枯れるときを想い、生きなければならない、そんな日々を続けてきたエネルギー源は自分でもよく分からないままです。

一つだけ分かったのは、見てくれている人は見てくれているということでした。
コノテーションを越えて。