普通の不通

「普通に生きられたら、それでいい」、いつからかそういう言葉を多く聞くようになりました。この場合の「普通」とは、衣食住の最低限の条件が備わって、仕事や未来も仄かにも広がっていることで、それは今の日本で感じ難くなってしまった証左なのだとも思います。

10年前、私が丁度、新卒の頃の普通とは「凡庸」と近似しており、厭うものでもあり、今は”普通の社会人だけど、いつか起業して”、など「普通」を仮題に置いて、飛躍するための記号のような扱いがされているケースが多く、それでも、普通にサラリーマンとして、今の生活を、という人も居り、ただ、その普通さえも護られた未来の今を生きているのか、寡聞にして知りません。

既存にあったものが急速に瓦解してゆき、自らの領域を堅守するだけで懸命になる中で、隣の芝生は青くもなく、隣家の壁はとても高くなり、想像力だけでは及ばないものになりました。

例えば、福田恆存氏の著書を紐解く際、とても日本語そのものに敏感になります。思ひ/重い、語に随うように、普通/不通ではないか、と想うこともあります。

「通じることの不全」が普通ではないか、ということ。

だから、「普通」は時代によって改変され、利用される意味文脈も逸れてゆきます。親は我が子に「多くを望まず、普通に。」と言うのは、親の「普通」は築いてきた経緯の辛苦を経てのもので、子は来たる瀬に向けての「普通」は差異があります。同じ言語を話しているようで、位相は全くずれてゆく、そういうことはより増えるのでしょう。誰かの自明は誰もの自明ではなく、私のこれは誰かのこれではなく、視ている思考越しに積み上がる言葉は曖昧に、輪郭だけを残して、去るのかもしれません。

そのときにまた、普通に話せるときが来れば、不通ではなく、普通を取り戻せるような気がします。