'bout RADIOHEAD

RADIOHEADの面々が育った場所、UKのオックスフォードという町は、僕も行ったことあるが、『PABLO HONEY』時のインタビューでトムがこのような旨を言っていたのを憶えている。

「それなりに楽しくもあったけれど、ゾッとする町であって、トーマス・ハーディ『日陰者ジュード』の描写に出てくる、一軒、未成年の飲酒に胡坐をかいたパブがあって、土曜日になると、2−300人の若い子が集まっては、今日のパーティーは何処?って探してるっていうさ。(大学を中心とした)この町では、誰もが天才的に格好良く振る舞うのが当然のように扱われるんだよ。秀でた何か、がなかったら、もう人間がダメ、みたいな烙印をおされちゃうわけ。」

1968年のベトナム戦争の現実に軋みがおき、反戦運動の激化、パリの5月革命が起き、ケネディー、キング牧師の暗殺、日本の全共闘、人類の初めての月への着陸など世界的に様々なものが「連鎖して」起きた年の10月7日に、フロントマンである、トム・エドワード・ヨークは生まれていて、彼の父親は核物理学を学び、機械販売の仕事で各地を転々としており、母親は、アート・スクールを出て、ファッション・デザイナーの後に主婦におさまった。そして、「彼」が9歳の時にオックスフォードに落ち着く事になる。

1985年頃、アビンドン・スクールの知己たちとバンドを組むことになるが、そこで、同学年のパーティーで馴染みだったコリン・グリーンウッド、コリンと同じ演劇部にいたエド・オブライオン、そして、フィル、コリンの弟、ジョニー・グリーンウッドたちが最終的にON A FRIDAYと名乗り、バンドを結成することになるが、知っての通り、コリンはオックスフォード生まれ、エドは医師の家庭、フィルも医師の家庭、という良家の出であった。しかし、前述のゾッとする町でそれぞれなりに心の空洞を抱え、それを音として、表現として表すことを選ぶのを決意して、連帯することになるが、そもそも初期はJOY DIVISIONTHE SMITHSR.E.M.であったり、自己嫌悪系、カレッジ・バンドの「ヌルさ」を持ち合わせた印象しかなく、1991年にデモをおくったEMIのプロデューサーが気に入り、パーロフォンとの契約、それを経て、翌2月には、TALKING HEADの『TRUE STORIES』の収録曲から取って、RADIOHEADと名乗る事になる。そして、「CREEP」を纏わる一大騒動に彼等は知らず知らずの内に巻き込まれていき、

カート・コバーンの次に引き金を引きそうな男」

の称号をトム・ヨークは得た。

ゴス、ジェネレーションX、鬱屈した若者たちの捌け口として「CREEP」は機能し、コーラス前のジョニーのギターでのカッティングで皆は、「似非」カタルシスを得ていた。そして、UKのバンドでは珍しく、先にUSでブレイクしたバンドの先駆でもあった。

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1998年に大阪で、初めて彼等の単独公演を観た。

それは、音楽で泣く、とかじゃない、もっと「壮絶な何か」があって、『OK COMPUTER』からほぼ全曲と、『THE BENDS』からの数曲、「PEARLY」や「TALK SHOW HOST」、「YOU」も加えられたセットリストは非の打ちどころがなかったが、あとで、『MEETING PEOPLE IS EASY』の映像を見ると、楽屋では相当、バンド、というよりもトムが混乱している状態、ツアーに次ぐツアーと、その周囲からの急な期待と評価に神経症的になっている、ようだった。静と動のようなセットリストの組み方。生と動を行き来するような表現のウネリはこの時点で、もはや最高潮にあり、オックスフォードで育まれた五人のミドルクラスの青年たちの「空洞」や「不安」が世界そのものと「共振」した瞬間だった。しかし、ノイローゼと紙一重のその世界観への評価はバンド自体を追い込んだ。

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「COMPUTER」に「OK」をもはや言って、自分たちの存在を「DISAPPEAR」してくれ、という懇願の結晶『KID A』では、バンド・サウンドというものは解体され、言語はシルクハットから無造作に選ばれ、トムのあの清冽な歌唱にも加工が為された。ただ、皮肉的、一番待たれた最高のバンドのニューアルバム、として英米で1位を獲得してしまい、評論家、ファン、一般リスナーからも様々な毀誉褒貶、在りもしない噂がとてつもないレベルで巻き起こっていた。

2000年の秋に、僕がこの作品を買いに京都のレコードショップに行ったときの雰囲気は今でも忘れられない。全面に押し出された、棚。ポップ。そして、そのドンウッドのジャケット。僕はこの一枚を待っていたけれど、実は「待ってなどいなかった」。触れるのが怖いのもあり、抱き合わせでMr.Childrenというバンドの『Q』と中村一義『ERA』を買って、早速電車にウォークマンに入れて、聴いてみた。「EVERYTHING IN ITS RIGHT PLACE」のカットアップされたトムの声と、冷やかなエレクロニクス音が聴こえてきたとき、僕は大学の大講義教室で「悪寒」がした。「I'm born again」から3年以上過ぎて、のこの境地、「あるべきものが、あるように還る」という事をサジェストするため「だけ」の歌。エレクトロニカポスト・ロックとの邂逅などを越えて、彼等は「R-A-D-I-O-H-E-A-D」という記号さえデ・コンストラクトしようとした所作に僕は悲しくて仕方なかった。双子作的な作品『AMENIAC』で帳尻があって、「PYLAMID SONG」、「I MIGHT BE WRONG」がちゃんとあったことで、「バンドの意味」、RADIOHEADとしての輪郭、トムの独断、トムの暴走ではないことも納得がいって、2001年に来日公演では、これ以上ない精度でこの二作の世界がコラージュ、音像化されていた。

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以前、UKのBBCに彼等を観に行ったときに、彼等はもう草臥れていて完全に壮年の五人組のおじさんでしかなかったけれど、演奏中の彼等の紐帯はいまだ、アビンドン・スクール前後の雰囲気さえあって、それが僕は元気が出た。

トム、コリン、エド、フィル、ジョニーが並び、醸造される彼等の音は限りなく美しく残酷だけれども、何故か柔らかく、微笑ましい。それは、世界対五人という、図式になったとしても、あの五人は並んでいるんだ、という意味もあるが、「トム・ヨークのソロは、トム・ヨークのソロでしかなかった」ように、バンドというのは「そういうもの」なのだと想う。

今世紀の貧困は、これまでの貧困とは異なっている。かつての貧困が自然的な欠乏の結果だったのは、違って、現代の貧困は、金持ちが他のところへ優先権を与えていることに原因がある。その結果、現代の貧乏人たちは哀れみの対象とはならず、ごみとして捨て去られるのだ。−ジョン・バージャ

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僕は、IN RAINBOWSのライヴのとき、彼らのアンプ、キーボードに敷かれた「フリー・チベット柄」の布にずっと目を奪われていた。そして、天井から吊るされた無数の蛍光灯のような棒の連なり。エコを推進するツアーだそうで、FoEへ署名もしたが、そのツアーは機材、資材、会場の電気、ステージ照明、またゴミから更には細部に至る、諸々まで「エコ」が張り巡らされていて、物販では水を入れるボトルが3,500円でちゃっかり売られていて、また、Tシャツも環境に良い素材を使っていた。

その割に、ステージングの派手さ、照明の過剰さは他のバンドより抜きん出て凄まじい。

トム・ヨークは元々、過剰で気紛れでUKのミドルクラス特有の「恵まれた階級」がゆえの、苦悩を何かしらの表現や贖罪に求めてきた人でもあった。だからこそ、ノーム・チョムスキーの書物やナオミ・クラインや、「ねじまき鳥クロニクル」を読み、反グローバリゼーションを掲げ、徹底的なレフトフィールドの立場を取り続けてきた。しかし、そのレフトフィールドの所作というのは旧弊的な「それ」でもあって、ブラック・ジョークで「弱者を想うコミュニタリアンはステーキを会食にセーフティ・ネットを張る会議をしている」なんてイロニーがあるが、ライヴ中は熱狂の渦にありながらも、終わった後、苦虫を噛潰した感じになるのは何でなのだろうか、考えることがあった。

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「There There」という曲がある。

―We are accidents waiting happening.

この曲を聴くと、金融恐慌前のグローバル市場で闘っている畏敬する友を想い出す。彼は、今、孤軍奮闘で「世界がどうしようもなくなる」前に、彼が一番忌み嫌う「政治」の枠に足を踏み入れている。

しかし、政策でしか、セーフティー・ネットは貼れないからだ。彼は、「同じ世界」になっていく事に対してとても不安神経症的で、「何もかもがあって、何一つ望むものがない世界」への反抗心を僕以上に持っていて、多国籍企業やらM&Aやら景観美にナイーヴな人間だが、彼は「There There」を聴いてどう想うのだろうか?

僕たちは間に合うのだろうか、様々なものに対して。

「今、僕たちは起こるのを待っている障害でしかない」―

としたならば、その障害物を払いのけるのは名誉なのか、罪なのか、理解らない。

学生のプア層から如何にもなサラリーマンの富裕層、ヤッピー、クリエイター系、ベースは線の細い方々をメインにした今のファン層を見ていても、僕は今のRADIOHEADは本当にマイノリティの為に強者になったのか、最高品度のパフォーマンスを行なうというアティチュードそのものに、「対象化」して、自身にとってロックとは何なのだろう、とか考えさせられる。

現在進行形で、「その先」には新しい景色が拡がっているのだろうか?