indefinito

誰か、「黒幕」を探そうとしていた日々がだらだら坂のように続いている瀬に、でも、実は「黒幕」は姿をしていないというのが嘘の本当で、本当の嘘はその探索作業の中で無数の作り上げられた仮想敵でなかったか、という気がします。少しの捻じれから利権侵犯から、二項は対立軸に往きます。そこには、ルー・ザロメが居る場合もあるでしょうし、キリマンジャロの雪が積もっている場合もあるでしょう。

正義対正義の先には、「不在」が残ります。精緻に言えば、「不在」“になる”という結因。その「不在」を感じるのか、喪に服するのか、ロスト・リバウンド、つまりは喪失的反転する思考が輻輳性を持って、不在「する」黒幕のカーテンをめくるまでの道で主題から客体性へと、目的から方法へと視角が変わる、そんな可能性を感じます。

方法の時代、ゆえに、私はポール・ヴァレリーを読み返すことが増え、ソシエテ・アノニム、仏語で株式会社を指しますが、直訳すれば、無名会社、その無名会社が乱立してゆく場所に視えないミサイルや分かる不在、そして、生成言語配列、メカニカル分析、知性の偶像などが頻繁に行き交い、ハイアラーキー以前に、エミール・シオラン的な分かりやすい警句が並んでいました。

無意識の教養、亜流の幸福、堕落の注解…シオランの揺らぎと感覚はあまたの著書が出ていますので、どこかで目にした人も多いかもしれません。ただ、シオランのような無名図書館に向かうことが今は良いのかどうか、それは分からなくなりました。だから、反知性行為として自己制御としてヴァレリーを読んでいたのかもしれませんし、並走していたドゥルージアンたちは現在進行形で何処に居るのか、消息も聞きません。

日本では、失われた20年から未曾有のゾーンに入り、「円高」の仕組みが複雑で不気味なものであるということが多くの方が分かってきたように、貨幣も貨幣を「している」時代です。言語が通じなくなるように、実体経済上ではなく、金融経済上での貨幣言語は投機家たちのジャーゴンのようなもので、貨幣言語がデノミされたとき、実体経済に降りてくるのかもしれません。そのときに、シンプルに交わす希望的な何かはきっと「不定」(indefinito)の補助線を堅守する、そういう予感が強まっています。