負ではなく、

病院を好きな方は居られないのでしょうが、自分の何かしらの「不健康」、「病気」のために行く訳で、病室には基本、当たり前ですが、「不健康」、「病気」の人たちが居ます。そこに医者や看護師の方々、見舞いの方などが交差する訳ですが、病棟や病院の種類にもよると思うのですが、私は病院に行きますと、それまで抱えていた何かを相対化、対象化されるようなことがあります。

以前、レスト・ルームに行けば、点滴の台を横に置きながらの方に何となく話しかけられたことはありました。まだ中年の働き盛りのサラリーマンの方で、ただ、治るものの、重篤な病なのに、それを過大に、悲観に言うでもなく、真摯に、そして、ポジティヴに伝えられました。その方が言うには、病院でこうして診てもらえて、もしも、何かのときがあっても、「誰か」に看届けてもらうだけ、幸せだというフレーズが残っています。

今年、祖父は96歳で病院で亡くなりましたが、頑健だったのと、戦争から帰ってきて、天涯孤独で道を切り拓いてきた方なので、誰もに基本は迷惑は掛けず、更には最期は、ひまごにも囲まれて、認知症になりながらも、ぼんやりとした温和さを持ったまま、天寿を全うしたというものでした。その病院には、御葬式できる場所もあり、最後、霊柩車で、斎場に向かう際、病院の関係者の方々が外に出てこられ、並んで、見送ってくれました。「向こう側」に行った祖父の想いは分かりませんし、もう分かりえませんし、「こちら側」に居たときの総ても分かり得ないまま、誰もが同じように、一人、抱えていったものも尽きなかったのでしょう。

幼少の頃、祖父からよく戦争の話を聞きました。大砲を打っていたこと、敵軍に指名手犯の写真を貼られたこと、そして、自分が生き延びて、どんどん成長してゆく日本を観られているのに、紙一重で観られなかった戦場での同僚が沢山、居ること。「いい時代の、美談」に済ませるには苛烈な人生だったのだと思います。現代の透明な戦場ではなく、現実の戦場、そこからの帰還。帰還してからのどこかに漂う贖罪、虚無感、記憶と並走しての「生」―。

だから、「生」を迎え入れる場所として病院はあるのだと思います。ただ、その従事される医者や看護師の方々の過酷な勤務状態を知己などから聞くと、憂慮もします。病院数もそうですが、病床数対患者数、更には、優先順位、必然的なハイアラーキー、大学病院での教授選などは変わらず「白い巨塔」を想わせる内容を聞くことがあります。

全くの初診では春まで無理だという診療所や急病で救急車に乗っても、病院サイドの受容の問題での盥回し、地方になると、その病院に行くまでに診療代よりも移動費が掛かってしまうというケースも出ています。高齢化社会と医療のトレードオフもあるとは思いますが、今や健康に病院に行くこともままならないながら、異国で少し体調の不良があったときは先にサイン、署名などが必須だったり、人口比が凄まじい国での診療までの過程は日本の比じゃなく、途方に暮れるものがありました。

***

専門職の方と付き合いがあるというのはフラットに生きていますと、どうしても難しく、医者同士でも門外漢の友達が多かったりしますし、それは長い付き合いだけでは済ませられない、それぞれの阿・吽もあるのでしょう。医者や弁護士や学者の知己にしても、自身と畑が違うから、と言うのと、教養ベースで話ができる、そんなところがあり、今になってよく話すようになった弁護士の知己も難しいことを話す訳ではなく、守秘レベルではないよしなしごとが多く、ただ、どの界隈でもしんどさは増しているのは感じます。

巷間からは高給のイメージがある医者や弁護士の方々でも、社会的な負を精緻に見つめる仕事です。無論、その職務内でも意識の差異、スタンスの差異はあると察しますが、「負を精緻に見つめる」行為とははかりしれないハードなものがあるのは凡人たる自身でも分かります。昔に父が、交通事故関係のジャッジ役をしていたとき、一通りの調書に目を通し、そこから当該者の言い分やパーソナリティを見ていくと、「どんどん人間不信になる」と言っていたことがあります。そこにはそれぞれの言い分の背景に、人間の持つ否応のない「負」が披瀝されていたからなのでしょう。但し、今、「負」を見詰める行為が明らかに当たり前(デフォルト)になってきました。しかも、一昔前の絶望的な何かを突き詰めることで、実存が持ち上がるという文学的なものではなく、目の前にただ裸である現実の「負」。その「負」が浸食していけば、反転しての「生」に行くのか、というと、もっとキルケゴール的な危うさを帯びているのが今だとも思います。

それでも、病室の窓から観る桜、紅葉などで「生」を感じると言っていた先に向こう側に行った知己の想いは決して「負」ではなかったのだとも今は思えます。