silence is busy.

来年以降は、自分は「籠る」ことになります。

それは、発信より受容ではなく、進めてゆく作業群がどうしても長い月日と忍耐が掛かってしまうゆえ、です。だからこそ、今年は過剰さと饒舌を認知閾下で進めてきました。その中で無数の生傷は絶えなかったのですが、それも覚悟で、少しだけでも私の知っている/知らない誰か、世の中の片隅に花を添えられたのならば、とも思います。

大文字のステイトメントが行き交う中で、小文字にどう置き換えるかの作業よりも、言語生成の原基配列までいって考えることが必然的に増え、そこで、ソシュールを読み返す機会が多かったのは自分の「旧さ」なのでしょう。

「公共圏」での共通言語が無くなってゆき、共犯言語ばかりになるのならば、その「言語」そのものを科学的に微分解析するべきではないか、という試行と遡求。ただ、様様な国の様様な言語は情報を乗せて、どんどん加速していきました。今も加速途中にあるのでしょうし、その加速してゆく言語は自分には手に余る何かとも言え、その言語をもう一度、自分の中で嚥下するためには「原基配列」まで戻る必然があり、その必然は失語と近接します。沈黙は金、なのかもしれません。ただし、沈黙には明確に種類があって、畳み掛けるような大文字の表現が並ぶのに耐えられず選ぶもの、世相を想い、口を噤むもの、など、その「沈黙」の背景、文脈があり、今年は多くの「沈黙」に耳をすませる機会が多かったのも、もう「沈黙」の後には墓標がたてられている可能性も少なくなくあり、その「必然性としての、沈黙」と「蓋然性としての、沈黙」の間を揺れました。

インフレ化してゆく情報群に、添えられるのはやはり多種多様な言語で、ただ、ときにそれは言語ではなく、コースの前菜のようなものだったりします。メインディッシュは「沈黙」だったのではないか、という倒錯は無意識裡にも自分の中に埋め込まれていきました。

沈黙は今は何を話すのでしょうか。