after glory days

歯科医の方に実際に聞いたことがありますし、有名な話かもしれませんが、病院の待合室で柔らかく流す音楽で非常に愛好されているのはBILL EVANSの『Waltz For Debby』で、老若男女問わず、もはやクラシックになっているような気がします。いわゆる、ジャズ喫茶、ジャズ・バーでそれを、エヴァンスを頼むことは「モグり」、「不粋」みたいなことになるのかもしれませんが、「モグり」というのは自己防衛、制御と記号性の交換に最終的に行き着くという意味ではどのフィールドでも存在するような気もします。

或る程度の知識を積み重ねている方や或る程度のその分野で道を進んでいっている方ならば、ジャーゴンとまでも言わないまでも専門用語、その界隈でしか通じない言葉群でそういった場では遣り取りするようになります。そこには、おそらく社会的磁場で人間は言葉の生物ということ以外に互認し合うことで保たれる証左を示すのではないか、と思います。どんな組織に帰属するにしても、その中で通じる言葉を増やしてゆくことでコミュニケーションの幅が拡がり、認証の幅が拡がります。

ただ、その「ソト」へ出れば、通じない言葉と表裏一体でもあります。何故ならば、ウチの場合では、と今は表明しても、暗黙とされる社会の共通前提と言いましょうか、必要十分条件が成立していないことが多いからです。

今回の政局再編で急に持ち上がり、コンフィデンス・ワードかのように用いられる「第三極」にしても、その前に、「政治とカネ」にしても、政治界隈に全く興味がない以前に、平常を真っ当に生活している場合なら、関係ないというよりも関係があっても、分からない/分かる必要がない背景があります。

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その分野で作られたフレーズ、法律の条文などは別枠にするとしましても、情報と知識の分岐線はより今、峻厳に敷かれるようになりました。

ポストモダン的な趨勢ならば、知れば知るほど楽になる、知れば知るほど生きやすくなるという瀬も一部ではあり、それは経済、治安、政情が或る程度、安定していたからこその動きとしたら、現在進行形で経済のみならず、多くの不安要素が社会背景を支えるようになり、最大ユニットが「社会」、最小ユニットが「家族」に帰着するのか、というとあながちそうでもなく、最大ユニットに「家族」、反転しての最小ユニットの「家族」が「孤(族)」に言い換えられるケースもあるかもしれません。

―知らない不安は強迫性を帯びる、そんな物言いもありますが、そのムラで知っていることをより知ってさえいれば、あとは要らない、断捨離というワードが汎的に通じたのはそこのポイントで、今は「知る、不安」が「知らない、安心」を上回ることがまま出てきました。知らない言葉があれば、今は一線の方でも検索して、Wikipediaなどを一応、あたりますし、基本、何かしら検索/探求のアンテナを張り巡らせれば、何でも出てくるようになった便利さがあり、ただ、最近、問題になっているエゴ・サーチ、つまり、何らかの自身に関わることを直接、調べようとする行為での厄介なのは、上位にはベース、ネガティヴ・オピニオンが並びやすいということでもありますし、標目のセカンド・ワーズには決して、良いものが並ぶことが少ないというのもあります。

「良いこと」というのはあまり好まれない、というのではなく、社会を生きる心性としてはゴシップ、不穏、他人の不幸は蜜の味的なものへ向かう、そういったことはより強くなっていて、例えば、何らかの病気に罹患した人が同じ病気に罹患している人の体験記を読むときにそこにまず同調よりも安心を見出す順列には、心理階層の綾があり、自分より重篤な人が居るということを「確認」してから、安心→同調、更には溶け込もうとする階段を昇るのかもしれません。ただ、その階段をその人が昇ったときには、また下から同じような人が「その人」を見るのでしょう。

不安、不安定、不幸などの「不」は共通話題になりやすく、その「不」は「負」です。安定、安心、安泰、の「安」は膨らまない退屈を誘引せしめるならば、苦しんだ表象者の安らかな表現を厭う倒錯も分からないでもありません。

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以前に、COOKIE SCENE星野源さんの「くだらないの中に」というシングルについて書いたとき(http://cookiescene.jp/2011/03/cdsvictor-1.php)、の既知の情報への再確認にシステムについて触れましたが、現在はより既知より既知の累積を想います。それはSNSのみならず、情報量が溢れすぎながらも、等列かの”ように”並べられる世がより強まっているということでもあり、AMAZONのお薦めリストみたく、書物、服、音楽、食、何でもいいですが、実店舗に行っても、寄り道するよりは最短目標で最短距離を目指す傾向があり、勝つものがより勝っていき、目につきやすいところに目につきやすく、誰もが手に取りやすくなる―そう、なります。個人的に、寄り道の中での「くだらなさ」を発見するところに意味を見出しても居たので、この10年、いや、数年で急速に「遊びがなくなってきた」品揃えを前に、困惑より憂鬱をおぼえ、同世代と話していても、フィジカルのCD、レコード、書籍群などのパラダイム・シフトの端境のしんどさを交わし合うことも増えました。

それでも、そのしんどさを享受しないといけないのが現代でもあり、この日本でサヴァイヴする方策で、一旦、「降りる」ともう戻れない構造も憂慮致します。

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いわゆる、団塊の世代が最後の新卒勤務、満期定年退職の最後のマスだと言われています。65歳以上の人口が3,000万人を越えてきた人口ピラミッドを考えていきますと、分からないでもなく、その世代の可処分所得に頼るカルチャー形成も確実に為されています。聴き直しとしてのビートルズ、読み直しとしての文学書、健康食品、海外、国内旅行、美食、私もそういった世代向けのものに目配せしつつ、では、自分はそこには無論、包含されず、では、何処に立脚すればいいのかと言いますと、難しく、伝聞でしか知らない日本の70年代の高度経済成長を体現するような新興国へ行ったときに疲れながらも、元気になるのは彼らには「次」があるということに尽きます。

「次」とは、文化、教養、富を追いかけてゆく楽しみで、日本が或る程度到達した成熟社会では微細たる変化の刻みでの幸福度と、初めて自分たちの国に、自分たちの都市に車が、テレビが、などの幸福度と比肩するまでもなく、昨今、ブータンの幸福度が話題になりましたが、そこに「文明」が割り入ってゆくと、おそらく、そのバロメーターは崩れる可能性が高いでしょうし、一度、その「味をおぼえた」層は何らかの下方修正を是とし難くなります。やはり、「便利」は便利だからで、つい先日も人身事故の関係で電車の中に一時間ほど閉じ込められたことがあったのですが、怒号をあげる人からスマートフォンに耽溺する人、ただ待つ人の混成状態の中で少なくとも「人身」であるわけで、ハーバーマス的な公共圏の意味合いを改めて考えました。新興国のみならず、海外などで公共機関に乗ったとき、ざらに1時間など遅れることもありますし、日本の分、秒刻みの公共交通の状況とはいつも素晴らしさと紙一重の二律背反的な感覚をおぼえます。

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のんびりと僕は行く。痛みの雨ん中で。
(「犬と猫」、中村一義

くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる
(「くだらないの中に」、星野源

のんびりと痛み、くだらないと笑い、この頃、この10年以上も離れた曲の歌詞の引き裂かれた「何か」を探して生きている自身を追確認しながら、今年を総括するというよりも、より混沌たる来年に持ち越さざるを得ない課題群を検討しています。

2012年、個人的にとても悲しいことが添い、のみならず、世界も激変してゆき、だからこそ、動き、饒舌性を保ってきましたが、その実、時間差で勝負は来年以降でもあるのは、フラッシュバックということが多くの方にも起きてくるだろうと思うからです。目に、記憶に焼きついたものの再像化がなだれてゆく場所で知的にどう自分は定点を置くのかがより求められる日々が航続するソトでウチに往くのか、ということ。