耳をうずめて

「死ぬこと」そのものに留保している人達が多いのは、自分達にはまだ「無関係」だと想っているからかもしれません。そして、「何があっても、生きるんだ。」と、闘病か臨死体験、何かの結果で「生」のありがたみを説く人が「死」を近似値で知ったかというと実のところ、そうではないのも事実のところで。

この2年ほど、止むを得なくも、死生観が変わってしまった人たちも多いと想います。しかし、その実、「まだ、関係ない」とさえも、根底では想っている節も当たり前に存前します。生活は「日常」の中で続くわけですから。

当たり前に、"「生きている」、「有」"の反対は"「死」でも「無」"でもなく、"「生きていない」、「有るものが、無くなる」"になるはずだと思います。ただし、感情論として「在ったものが、無くなれば」誰だって寂しいに決まっているからで、「恋人の死」、「友人の死」が装飾過多の形でアンプリファイされれば、皆、涙を流す。その涙の色は鈍色かもしれないですが、だったら、ゴシップに籠もっている方が健全なのかもしれません。「死」はイマジネーションによって、ダンテの「神曲」の時代から夢想されている産物でしかなくて、実際的に「死」なんてものはないとも言えるからです。

なぜならば、「死後」というのは「生きていない」ということです。つまりは、「生命的に断絶を意味する」が、全くの「無」ではない。そして、「世界にたった一つだけの花」などのそういうフレーズが背中を押し、人間の生命は地球より重い、とされていますが、精緻には、そうではなく、もっと人間が生物的に「発展的に」、「生命科学的に、高尚な産物」ならば、「死ぬはずなんてない」わけで、70億人以上の人口ほど“分種”する必要性がなかったはずでしょう。手塚治虫火の鳥』の未来編での“永遠に死ねない命”のように、ずっと繰り返し続ける「輪廻転生」という考えが、まだ有効なのはそういう証左を巡ります。それでも、自身は健康で、それなりに満たされている人たちやヒューマニストたちは、「生命は何よりも尊い」と問います。

−だからこそ、もっともな言葉で生死に「ついて」語られると、個人的にささやかな疑念が生まれてしまいます。それは、私も「明日」死ぬかもしれないからです。そして、死んだら私の「死」を誰かがほんの僅かだけ憶えているか、片隅で消えてしまうか、はたまた、葬儀屋の手順に則り、喪に還るのでしょう。

「私」を遡りますと、若くなり、子供になり一つの受精卵に戻り、そこで「私」はもう、なく、「その先」は親の精子卵子に分かれます。やがて、精子は父親へ、卵子は母親へ回帰していき、その双方とも同じような道筋で分かたれていく。「その回帰していく未来のような過去」には余りある「生」しかない。「死」などどこにも存在しない。

ゆえに、安心して今、未来に進むように見えて、「還っている」だけなのかもしれないと考えてゆきますと、「あなた」と、「私」という結節した点の上で広がる世界に居ることの蓋然性の拡がりに驚きます。死にも生にも均等に耳をうずめながら。