2012年にジョン・レノンを

アメリカは「ジョン・レノンが好きな人」が多いです。

「想像してごらん、国境もなにもない世界を。」…

そして、イギリス人は「ポール派」が(比較的)多いのは私の実体験のみの統計でアテにはならないですが、かたやフロンティア・スピリットに依拠したメルティング・ポット、かたや旧弊墨守の「帝国」と二項対立図式を置きました時に、例えば、カニエとマイク・スキナーを比べるのはライム・スキルを別にして位相が「全く違う」のと同じくして、グライムは何故ゆえにUK発信だったのか、など考えるまでもなく、しかしながら「WORKING CLASS HERO」が「実在」するのはUKであり、USではMTVを観れば、ブラック・ヒップホップ勢の金ネックレスを観ない日はない、若しくは、WASP勢のぼやけた輪郭の音楽やとことんヒップなパンク・ミュージックばかりなのは、民族差、エスニシティ差し置いて、周知の通りなのかもしれません。ゴシップ・セレブの突端となり「音楽的野心」のなくなった、ブリトニーのワークアウト写真での江南スタイルを踊っているさま、「作為性」ではなく、ミーハーに世界を繋げる符号です。

ちなみに、私がヒースロー空港に着いたら、「畏まる」感じがあります。「ケッカイ」を「結界」と訳すのがUKで、「決壊」とするのがUSというアナグラムはどうでもいいですが、ピンと張り詰めた空気は圧倒的にUKの方が高いです。それが「歴史の重み」とか陳腐なことは言いませんが、余りある階級制度とクラシファイドされた風土、街並のCURIOCITYに神経が「反応」するのかもしれません。その分、USでは「毛穴が開く」というか、もっと「平べったく」感性が醸成されます。治安的に、USでは危ない事が多かったのですが、あの大陸性の悠遠さと民族のメルティング・ポットたる由縁が自身に何かしらの解放をもたらしてくれるのかもしれません。NYのバーで「Gimme Some Truth」が流れているのを聴きながら、何かしら"求心性"を求めてしまう国というのも厄介なものかもしれない、と私は想ったりしたのです。

インテリゲンツァで多いのですが、日本とのモデルケース、臨床例で「USの例」を出す人が居ます。先進性は高い部分もあるのですが、ああいった人が「現場を観ているか」と言えば、逆で寧ろ昔に、長期留学して失敗したりしているクチもあります。笑い話ですが、ドイツ哲学を修めている人がいざドイツへ留学して「空気が合わない、欝になる」って帰ってきた人や、アメリカの最新の経営理論を修めている人がUSへ行って、「自分のやっていた事が全く通用しなかった」ってのも事実ですから。

だからこその、ジョン・レノン
―愛と闘争の人。はUSに適応する。という文脈は理解り難いかもしれませんが、日本でずっと「ドラえもん」は「ドラえもん」であり続けるように、USではずっと「ジョンはジョンのまま」なのです。それがゆえにグローバリゼーションの覇者と、自分(自国)を想い込みながら、オバマ再選後、「POWER」TO THE PEOPLEへの導路までを走る定めなのでしょうか。