fault line

私が本格的にNETを始めたときはおおよそ、10年以上前になりますが、その時は、少し「敷居が高い」部分があって、JAVAやフラッシュや高度な個人型HPも「新しい形式」もどんどん出てきていて、個人的に「乗りたくないけれど、乗らないとヤバいだろうな。」という気配もしていて、一応は「乗った振り」をしてみましたら、SNSやblogブームが来まして、僕自身としては「玉石混交の言論は最終的に玉が残るはず」と想っていて疑わなかったのですが、結果的に”そういうことになってしまった”のは周知の通りでしょう。

「テンプレートや、システムが事前に組み込まれた場所」に、「言葉や写真を嵌め込んでゆく」ハードルの低さと戯れにそんな多量の人が「乗る」とは思っていなかったですし、まさか、自己表現欲や顕示欲など諸々の「手の付かなさ」については私も予想だにしなかったです。

例えば、今や海外に行けば、skypegmailtwitterfacebookやらブログやらの「交換」をすれば事足りて、案の定、「繋げば」そこに彼女や彼や私やあなたが仮想的に現前します。

今や、検索をかけて「blog」を記事を省かないでおくことは不可能に近くなりました。

そして、今や、何処に行っても(たとえば、自分が馴染みの、雑誌に載らない寂れた京都のバーでも、写真を撮る観光客を拒否するマスターの姿を見るのは珍しくなく、海外でも写メと称して、blog記事のUPに忙しいのも事実なところです。そしてまた、ピーピング・トムとして、ページビューに参加している人(もしくは、参加していない、知らないという人も「既に」巻き込まれていると想った方がいいでしょうが)とか、You Tube、ニコ動、fricker等見事に「ネット高等遊民性善説」をオーバーロールしていき、有益/無益も入り混じって、簡単に言いますと、デュルケーム言うところの「アノミー」化してしまったのは私でもあなたでもなく、「私でもあなたでもない、他の誰か」のせい?

そうかもしれないです。

いつだって手を掛けるのは赤の他人で、ニュースの大概は殆ど「あなたにも、そう、誰にも」関係ないかもしれないからです。