skirt decline

電車に乗っていたりして、真向かいのミニ・スカートの女の子が座ると気にならない男性の方が少ないかもしれません。ジェンダー、性差という細部を一旦、留保してのあくまでの一般論としまして。

教育の過程で、私たちは「ヘテロセクシュアリティ」―“異性愛”というものを習得させられる訳です。女子の保健体育の際の男子のグラウンドでのサッカーよりも、私は家に女性が三人も居たので、大変さや身も蓋もなさはよく弁えていました。そもそも私たちが生まれて最初に出会う性的な存在は「両親」である。両親のヘテロな性愛が自身を産んで、世に出してくれた訳だからして、ヘテロな性愛というのは深層心理下でのイデオロギーなのかもしれません。

となると、ゲイ、レズ、あの人たちの刹那主義の美しさは後天的なものなのでしょうか。そもそも、人間の「性別」なんて染色体が決めます。しかし、社会的・心理的性差はジェンダーと名称付けされます。ゆえに、ヘテロセクシュアリティの「如何にもな健全性」なんて目安ではないということを前提に、フェティシズムなんて場所に行くと、それは奥が深い洞窟のような場所に入り込みます。ウェット・アンド・メッシーに、制服からラバー、際限のない妄想。しかし、ピュアな欲動が発動する場所。ヘテロ性愛は恋愛に回収されてしまうこと。

何故、でも人はフェティシストになるのか、フロイトは「去勢に対する恐れ」と解釈しました。去勢不安、自分のファルスが切り取られてしまうのではないか、という恐怖、そして、母親にはファルスがないということに「気づく」恐怖。だからこそ、「去勢不安」をなかったことにして、フロイトは「否認」という言葉を置きました。そして、「否認」から拡がるフェティシズムの奥行き。

私たちはつねに何かを「欲望」します。
その様に魅かれる人も多いだろうが、私は微熱の頭の中で、1955年のマリリン・モンローの”7年目の浮気でのスカートの捲り上がるシーン”のカットアップが高速度化されて、新しい羞恥心と新しい欲望の蜜月性について考えていました。内在化・隠蔽化された下着を「恥ずかしい」と想うという所作、それに対しての「過多なる欲望」。

「見られたくないなら、スカートは穿かないように。」はそもそもナンセンス。

「見られたくないからこそ、スカートを穿くんじゃん?」

秘密に糊塗されますと、知りたくなり、禁忌をはられると、より見たくなります。
そして、自身が本質的に精神分析的な存在であると言わざるを得なくなります。
もしも、自身が刺激に対して動物的な欲望を持つだけの存在ならば、欲望と刺激の関係性というのは欠伸が出るほど、凡庸なものでしょう。抑制の美でも何でもいいでしょう、フラグメンツ、連想させる刺激片が時にリアルに響き渡るということ。

それは、私たちは「隠喩」的なものに反応し易い生き物だって事実を含意致します。