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経済学で言うところの「失われた10年」の延長上、00年代のジェット・ラグで心理的、生活的富裕に錯覚していた日本で、久しぶりに顕れたトリック・スターたる菊地成孔さんになんとなく距離を置き続けた関西学派(もちろん、造語です。)の気骨とはやはり、脱・中心、脱・ヘゲモニーという概念ではなく、例えば、官僚養成所としての東京大学、教養啓蒙としての京都大学の二分線ではなく、単純に強度だったのではないか、とも思うことがあります。あくまで大文字の上方文化で言えば、「元を取る」という言葉に沿い、商人根性はアナグラムながら、社会的にもっとも逞しい商人≒承認ではなかったのではないか、という気もしないでもなく。

コンサートでも名古屋飛ばし、なんてことを言われますが、最近はショーケースや目立ったものは完全に東京一極になりましたし、箱(ホール、ライヴハウス)などの問題と集/客体と行/主体の乖離もあり、関西もガラパゴス化してゆくのか、と思えば、別文脈でマッドな方々が中心に巣立ってゆく今、不思議な共時性を感じます。5年前に附箋を挟んでいたクルーグマンの本が、今、誰かがすぐその場でスピーチしている、そんな―。

社会学者、宮台真司さんの「意味から強度へ」論も有効期限よりも賞味期限の問題だったとすれば、90年代の社会学、9.11以降の政治学、00年代後半の屈折したLAW至上主義としての法学、10年代に入っての経済学、そして、今は医学、理学の趨勢を組めば、役に立つ/学問という錯綜が穏やかに集合的無意識をコロニアル化しているのかな、と思わないでもないですし、実に学問で食べられる憂き世は仙人の霞の世界のようなもので、変わり者が許された場所はもう砂上の楼閣になり、パフォーマンス・コストとランニング・コストを試算しての固定が模索されているような要素も孕んでいます。

日本の、日本のための、日本におけるエレガントなルイードは10年代、よりシビアな瀬に立たされるのでしょうか。ルイード・カルチャーは須く、チェックインした人たちだけのものになるのかも、という予想ゲームに次々BETしてゆくのはソロスでもバフェットでもないのは因業ですが。

IMFさえ、過去の反省をする時代ゆえに。