nobody can't under-stand

「NEKO」をして、「猫」に結び付くのは、「寝(る)子」じゃなく、「犬」や「豚」、「兎」、などとの相関図により、「ネコとしての、記号」は直接「猫」には結び付いてない訳です。簡単に言いますと、「INU」がないと「NEKO」も存前し得ないということ―。

徹底的に「私」を囲うとき、それは「貴方」があってこそ、の記号論です。

但し、“猫“可愛がりなどの言葉のように、様様な作用をもたらすためのコンテクストがあって、「ANIMALとしてのNEKO」だけを暗喩するだけじゃない、のは周知の通りで、ラカンで云う所の「象徴界」を示唆するときのあなたとは誰なのでしょうか。

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私も貴方も、「意味らしき何かとイメージの手繰り寄せ」で生活しているものの、これはラカン言うところの「想像界」といいます。なお、「言葉は三角で、心は四角」は「象徴界」。では、「想像界」は暗黙の了解で通奏低音として「響いている」からいいとして、「象徴界」にて、直接触ることが出来ないのは多少のフロイディアンなら把握できているのかしらん、という壁にぶつかります。

無意識裡に総ての言葉は交わされ、時に欲望は相克します。精神分析の妙はその「無意識に触れましょう。」という部分から始まりました。

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「言葉が存る」、と想っている時点で目出度い事で、実は「言葉なんか、ない」という場所に一度は行き着くことがあると思います。それは、言葉は容器だからです。その容器に水を注ぎ、共振し合って、空気の振動を理解り合って、「理解り合っている」ならば、文脈下、社会は言葉が支えていますが、社会が言葉を束ね上げているともいえます。そこで、「我想うゆえに、我あり」じゃなくて、「我想わぬゆえに、我あり」まで進み、言葉の極北を見て、コミュニケーションを始めてみたら、社会におけるコモンタームも、例えば、グラウンド・ゼロ、3.11以降の景情も各々で「持ち得ない」のが理解るかもしれません。

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あなたが例えば、ある孤島に行って、全く理解らない言語共同体に行ったら、嫌悪よりも不安感がある筈です。そして、悪い意味じゃなく、「同じ言葉を操れなくなる」だけのことで、別に問題はない、とラカンは言っていて、それは正否で言えば、「正」に近いと思います。

そして、「理解らない」、「自分と違う」と想ってしまった時点で、いや、その前に、言葉に対して「共有性」があると想った時点で、ラカンは「関係ない」存在になるのでしょう。「向こうの世界/こちらの世界」を分け隔てるものは本当にティッシュペーパー一枚位の薄い膜に過ぎません。だから、喪失を喪失したとしても、言葉の意味に戸惑う事があっても、それは「真っ当」であって、「異常」な所業と均衡する訳です。「絶望」なんてすぐに伝わる概念ではないゆえに。

では、希望に近い何かから始めるしかできないのも自明だという気がします。