trotzdem Ja zum Leben sagen

所謂、早生まれなので、実質、もう34年の月日を重ねます。干支や年齢なんて後次的なもので、朝の占いは要らないと常に想い続けていても、一つ年齢を重ねてゆくたびに死が近づいてゆくのだな、という気がします。「生き延びる」というのはテオドール・アドルノの文脈下でヴィクトール・E・フランクル、またはカート・ヴォネガットのような方を指すと思って止まなかったのですが、やはり、どうにも、すぐ傍らに「死」はあって、それは「生」とは真逆どころか、絶対的なものなのだな、と改めて認識します。

生には予め死が包含されているのかという問い自体の設定がおかしく、生の反対は生「きていない」になるはずで、では、「死」とは何なのか、セーレン・キルケゴールの著書を読めば分かるのか、主体性は真理なのか、それは分かりませんし、QQLに基づき、緩和医療が重視されている瀬もある現代ですから、今年に逝去した祖父が霞んだ視野にはきっと岡山のすすきや鐘堂、高校野球のプレイボールのサイレン、大相撲の番付表、天涯を通じた孤独の先に得られた家族の破片が映っていたのか、想うことがあります。年始には、「居た」訳で、今年は振り返れば、もう亡くなった想いや存在を悼む行為に暮れていたような気もします。産まれてくる順番は選べなくても、死にゆくときの葬列は誰が何を認知すべきで、どういった弔鐘(ゲラ)を鳴らせば、納得が、というのは「生ある者」の一方勝手な傲慢なのかもしれません。

かつてかつて、になってしまいますが、私が濃霧深い凍える冬の北京に少し居たころ、大学のパソコン・ルームから遣り取りしている中で友人からあるバンドのジャケットが送ってきました。先に手に入れた、ということよりも、彼も日本は日本でこうして動いているよ、という優しさだったのだと思います。

日本が今、朝でも他の国では夜で、また、誰かが喜びの極点に居るとき、誰かは悲しみの底に居ることも当然でしょうし、雑踏ですれ違った人を振り返っても、もう「過去」です。過去を生きる中で、未来が今に帰納します。そう思えば、自身は成長してきたのか、という課題に常に懊悩します。成長という言葉は衰化と鬩ぎ、ときにある選択肢の放棄、放棄の選択との意味を近似し、誰かは「何か」になってゆきます。元々あった名前から、社会的な名前と属性、更にはときに名前を喪ってどこまでも向かう路、全部を揃えて、持ち札を切れば、そこは「ここ」になるというのは楽観が過ぎるのは分かりながらも、「ここ」はずっと「ここ」ではないのが近代が示してきましたから、想像力の範囲内で受け止めることにしています。

帰巣本能、胎内回帰、そういった言葉はこの2年ほど行き交っていましたが、本当に「還る場所」は人間には備わっているかどうかではなく、意識の香りがそれらの言葉に強度を付与するのだと思います。瓦礫の下の意識の香り、寂れた故郷の下の意識の香り、擦り切れるほど聴いた音楽の下の意識の香り、何度も見たはずの景色の下の意識の香り。香りが金木犀に混じれば、涙が弾けて、静かに秋を巻き戻します。