cloockwork day and over

またぞろ、と週刊誌や各所で、9世紀の貞観地震後の状況との共振性を煽るような向きが出てきた。平安時代、869年に起きた貞観地震については2011年の東日本大震災を経て、より注視されることが増えたので、どこかで目にした人も居ると思う。となると、富士山の噴火、南海トラフか、と専門家が過去のデータや今のシステムから分析し、警告する。そんな遠い未来ではない形で、大災害は起きるにしたと構えていても、配分を間違えて余った、誕生日のホール・ケーキの、「翌朝」のように喜びを持ち越せるほどの未来の存在も仮託されないと、あまりに現実は酷な様相も孕む。V.E.フランクル『夜と霧』によれば、強制収容所ではクリスマスや新年にかけて多くの死亡者が出たというが、それはとてもシンプルな理由に依拠する。つまり、労働状況があまりに苛烈で、周辺状況が峻厳などといったものが直接的な影響を及ぼしているのではなく、クリスマスにはここを出られるだろう、という在り得なくも、ささやかな内的な希みを託していたロープが切れた、そんな脆さを帯びる。八方塞がった状態での「明日」とは、永く深く、そして、淵に立って見渡せば先の見通せない暗がりでもあるとしたら、本当に「明日が来るか」より、アテにならなくとも、クリスマス、新年、新しい季節の予感に新たな身を傾けないと保持できない秒刻の不安との鬩ぎ合い。

思えば、もうじきの桜を俟つ間に、現在地や此岸を移る、または、旅立つ報が増えてくるのと同時に、現在地や此岸での小さき問題の束が視界を侵食してゆけば、空洞化した大きな言葉さえ“響き良く”聞こえるとはむしろ、当然の理なのかもしれない。未来が不在のまま、歳月は埋め合わす術なく、零れ、不在の有る間、意識は周縁的に蚊帳の外から内相を暈かす。また、独立した「時間軸」を持っている人も居て、ある認知症の方が毎度、出歩くのを付き添っていた際に、今は何もない場所なのに、そこに行こうとするのを調べてみると、もう亡くなった伴侶と昔、住んでいたアパートの場所だった、なんて話がある。その方にしたら、ちゃんと「還ろう」としていたのだろう。それまで知っていたことが少しずつ分からなくなっていっても。

知っていることほど美しく、悲しいことはなく、知っていたことを憶えていることほど「生」たる何かを後押しさせるものはない。「時計が停まったままの彼や彼女は老けないが、自身は老いてゆくばかりだ。」という紋切型の話ではなく、その人にだけ見えているアパートに帰るまでの時間がときに“あまりに長すぎる”のが根底の因子にあるとしたら、人の一生とは砂粒のようで果敢なくも、どうしようもない重みを感じもする。春は限りなく、遠い。

世界はシステムで動く ―― いま起きていることの本質をつかむ考え方

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