SUNNY SIDE UP for new season

今でこそ、焦がれなくなったが、あの着色料で彩られた色鮮やかなジェリー・ビーンズは「異国の、味」がしたものだった。異・国というのは、自分がテリトリーとしていた場ではないところで育まれた文化が構築した味、という意味で、あの砂糖のコーティングを歯で噛み入れ、柔らかな食感と、袋の中の原色のそれぞれを確かめるときに感じたのはどこか背伸び(無理)している自身と、やはり自分の生きてきたテリトリーに戻ってしまう引き裂かれ方で、でも、春になれば、プラスティック製のイースター・エッグにそういったジェリー・ビーンズやガムが入っていたり、で。実際に貰ったり、目にした人も多いと思う。

日本にも沢山の宗教があって、それぞれに帰依を持つ人は多く居る。しかしながら、いまだ、八百万(やおよろず)に神が宿るならば、どこにも神はいないのと同じじゃないか、というイロニカルな言い方がされるほどに何かのときは神社に参って、式は教会で、なんてことは枚挙にいとまがないのも確かだ。昨今のハロウィーン騒動も元来、ケルト文化から秋の収穫を祝ぐ宗教性の高い行事だったものの、カジュアルに漂白されて、「公に仮装できる」ハレの日として日本は吸収して根付いた。

祭祀性には、文化、歴史、宗教、そして、何より人種、民族倫理的配慮が問われるべきことが多いが、基本、単一民族である島国で今のようなマルチカルチャリスティックな波をスタイリッシュにサーフするには、ナショナリズム的なアティチュードよりパトリオティズムとして立場を仮託して、原子的な共同体や、あるべき、だった故郷への切符を握りしめながら、“異地の、大切な儀式”への神経症的な無防備さがいるのかもしれない。

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色とりどりのジェリー・ビーンズが入ったイースター・エッグイースター・バニーによって運ばれることになっているが、そもそも、イースターとはキリストが十字架に掛けられて三日後、復活したことを祝う日を言い、キリスト教信者に重要な意味を持つ祝日で、思えば、国によってその前後の日の過ごし方は違うが、ゆで卵は勿論、子羊肉の料理などをもてなしてくれたことがある。ゆで卵のイースター・エッグにしても、東欧辺りの装飾は鮮やかで写真集で見て驚いたり、イースター・バニーでも、幼少期に居たドイツでうさぎを模った大きいチョコレートを何とはなしに食べていた。いまだに、知ろうとせずに、わからないでいられるポーズを取るのは容易でも、混じり合う瞬間にどことなくぼんやりとされる感性のボーダーラインには鋭敏になってしまう。ラビット・ランで境線は曖昧になっている訳ではなく。

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フラットに、サッカーのワールド・カップや皇室行事などで、自国の旗を振っている人を見る。自分は愛国者ではあるものの、イデオロギー的に、右的超越性に貫徹される実存担保も左的な不条理への条理的姿勢に伴う現実との差異幅へは踏み渡ることができないので、相対的な文脈でリベラルであろうとしていても、異国では、ときに、「JAPAN」のパスポートにサルベージはされている。

「寄りかかるものがなくて、大変じゃないか」と言われるときがあるものの、でも、それは、ホテルの朝食バイキングで自分の一人前で、目玉焼きが終わったような感覚に近くて、おそらく、ずっとサニーサイドアップを食べられないまま、来たようなもので、と、ターンオーバーはしないんだよ、と答えるにとどまる。そして、窓越しには賑やかなパレードが行われている。自分は「参加できない」のは分かりながら。

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例えば、病室には千羽鶴、誰かのメッセージ、想いのこもった賑やかな手紙が飾られているところがある。

「じいじへ はやく元気になってね。」―

拙い孫からの字を見ながら、壮絶な日々を送っていた方と話をしていて、ふと「退院したら何をしたいですか?」と言ったら、「墓参りかな。」と言った。「おばあさんのですか?」と聞いたら、「いいや、ずっと放っているお墓に不義理をしてるんでな。」というのを受けて、その先は聞かないようにした。「お天道様に不義理をしとったらあかんから。」、延命治療で痩せこけた体から呟くように言葉を置いた。そして、あるとき、その病室が空室になっていたら、壁には何もなくなっていた。それは当然だろうが、人が在るときだけ通じる場がある。「その、場」はささやかな祈り的な想いや願い、密な「その場を作った、人」を巡り熱量を形成する。

「遠い誰か一人の死に愚鈍になるな」、と言う人がいる。でも、「近しい、愛すべき一人の最期にさえ非力のまま、追い詰められる」こともある。忘れないでいること、というのは容易でも、「そろそろ忘れて、自分の人生を。」という人も居る。ただずっと「発見」、もしくは「納得」されない限り、その人にとって終わらない時間軸の中に包まれて続けているのだとも思う。寒い海の中を今も漂っているのを考えると、眠れないのもわかる。最期に何を思ったのか考えると、遣る瀬無くなる。

不義理をしたら駄目だというのはそういうことなのだとも思う。
だから、苦しくても生きた者は、生きるのだと思う。

新しい春が巡り来る。桜や花見に、変化を迎える季節に見上げるべきは空ではなく、足元から見上げた地下に眠る未来の予感ではないか、そんな気がする。ゆで卵の割り方に気を付けながら。