【REVIEW】工藤 鴎芽『Blur & Fudge』

《何も怖くないさ 今でも日常に在るんだから》
(「「Biology」)

悲痛でマッドな叫び声から始まり、ノイズに掻き乱されてゆく。個人的な極限の心理恐慌はこんなものなのではないことは、僕は先ほどのフィリピンでのちょっとした災厄の中、巻き込まれた際の「声」と似ているのも知っていて、驚きはしなかった。あの「叫び声」とは、人間が生物に戻る瞬間なのだろうか。小さい頃にも、危うい目に会ったときは、僕は感情をコントロールできなかった。

しかし、今、日本は津波や余震の画像だけで幼児退行やパニックが起きるというのは切ない。メロウ・サブリミナル?そこに、工藤鴎芽は「Biology」と類目として大きい曲名を付す。プライマル・スクリームの「Swastica Eyes」のような、ホーンの入り方は士気高揚歌のような、聴き取れないエフェクトがなされた声と歌詞に通底する叫び声。

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善にも強ければ、悪にも強いというのが、いちばん強力な性格である。
フリードリヒ・ニーチェ

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誰もが知る、アルフレッド・ヒッチコックという監督はまだ巷間では「誤解」で固められているのではないだろうか。

それはつまり、どれもが、イメージとしての彼が増幅され続けて、“ヒッチコック”という名前だけが先走るように、彼のたとえば、1960年の『サイコ』という映画には幾つもの誤謬が伴う。そもそも、サイコとは、“PSYCHO”の略式語で、今はなぜか妙な形で定着したPSYCHOPATH(サイコパス)に由来する。有名なシャワーのシーンをすぐに想い出すよりも、まずは『サイコ』という映画を提示し、それがバイオグラフィーの中でもそう異端でもなく、並べられているのも思えば、不気味でもある。『タクシードライバー』のスコセッシや『地獄の黙示録』のコッポラのマッドさがそこには漂うからであり、しかし、それが何かしらの時代の刻印にもなってしまいもする。

全国流通盤ながら、《Kamome Kudo》という自主からのリリースになるサード・アルバム『Blur & Fudge』は世の中でか細くでも呼吸することを生きる辛さを音楽に混ぜ込んでいるようで、シングルの「世界は 世界は」では、昔、ニルヴァーナカート・コバーンの妻だったコートニー・ラヴのライヴをサンフランシスコがで観たとき、ノイズ塗れの中で30分ほどで終わり、ずっとフィードバック・ノイズがその後、響いていたのを想い出すが、女性が煙草をくゆらせながら、ギターをかき鳴らす姿はクールだとそのときは感じた。そういう景色が浮かぶ「世界は 世界は」では正常/異常の二分線をクロールする。

9月9日に正式アナウンスメントされたものの、正式発売は11月13日、つい先ほどになる。ここに収まっている11曲は過去曲、「花の匂い」、「梔子」のリメイク含めて、刺々しさと個人が抱え得るだけの疼痛が響いている。オルタナティヴ・アーティストとしての彼女は京都をベースに、膨大な作品を出してきたが、そのクールで冷静な容貌と比して、複雑な葛藤を音楽的な言語に結びつけるときに逡巡もあった。『Mondo』、『At The Bus Stop』というミニ・アルバムではラウンジ・ミュージック的な要素を持ちつつ、それぞれのEPでは何かしらの色と毒を含み、ライヴでは最近、演出込みのスタイリッシュな背徳の舞踏会を用意するように洗練されてきた。

Blur & Fudge』がノイズの中で静かに浮かぶメロディー、ぼやけた声、その輪郭を護るのは彼女がソロとして築きあげてきた自負なのだろう。既に、次作への構想を固めているというが、生きる証左を音楽として刻印してゆく姿勢(詩性)は強く響く。

【工藤 鴎芽HP】
http://kudokamome.net/

Blur&Fudge

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